2021/6/18

昨日の夜、疲れて8時に寝たら嫌な夢を見て0時に起きた。すぐには眠れそうになかったので、本を読んだ。アンナ・カヴァンの「氷」。全て読み終わったのが2時頃で、いつも通り雨音を流して寝ようとしたけれど眠れず、BGMをすぎるとshu3のマイクラ作業配信に変えたら、4時前にやっと眠りにつけた。リラックスして話してる人たちの声を聴いてると、こっちもリラックスできる。すぎるはやさしい人だなあ…とよく思う。9時前には起床することができて、窓の外は快晴で歩くと気持ちがよさそうだったので、予約していた本を取りに図書館まで歩くことにした。

 

街を歩くと、いつも(街っておもしろいな〜)と思う。街はただ存在しているだけなのに、その中を通り抜ける私はいつも様々なものを発見して楽しんでいる。同じ場所でも違う時刻に行くと全く異なる様子だったりするし(私が散歩するのは基本的に夜なので、太陽の白い光の下で様々な人が行き交う様、街が正に稼働している様を見るのは新鮮だった。私は街の寝顔ばかりを眺めている)、本当に散歩っておもしろいと思う。考えごとも捗るし。最近、恋人と付き合って1年になったのだけれど、それを祝う砂絵ならぬ「石絵」とかやってみたらおもしろそうだなと思っていて、どうやったらそのアイデアが実現するか考えていた。これどうかな?という案が出てきたので、後で恋人に申告してみようと思う。

 

図書館⇄家で見た(いいね〜)と思ったものを貼ります。こういうの上げるのってInstagramが適切なんだろうけどね。

①光と影(私は規則的に配置されているものの作る影がすき)

すだれ?が何本もの直線を作ってるのがかっこいい

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地面の柔らかな裂け目みたいに見える、公園の、網でできたゲートの下

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駐車場の地面
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②かわいいね〜

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③犬とねこの糞尿ちゃんと始末してね

「大迷惑!」の上で傍若無人に飛び跳ねるわんちゃんかわいいね。犬やねこのイラストが載ってるこういう看板集めやってみたら楽しいかも、とか考えていた。

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④石

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街は楽しい場所です。

 

 

生きるためのずぼら

 

 2021/6/15

 

ここ最近、エンターテインメントをほとんど何も摂取できない。オモコロもドラマもSNSも好きな芸人のYouTubeチャンネルもラジオも、あの「ナポリの男たち」の配信さえも見続けることができなくて、途中でやめてしまう。音楽も同じだ。宇多田ヒカルスピッツも聴けない。数年前、人が本当に嫌になった時期があって、その時もクラシックは聴けたから、今回もクラシックを聴こうとしたけれど、それも無理だった。SNSは疲れているのについつい見てしまうから、今は頑張って見ないようにしている。

それらエンタメになぜ長時間触れられないかというと、それらには、視聴者/リスナーの感情を動かそうとする、製作者の意志やエネルギーが含まれているからだ、と思う。当たり前だ。それが一切ない制作物なんて存在しない。エンタメの受け取り手だってみんな、自分を楽しませる何かや、自分の心を動かしてくれる何かを求めているのだし。現に少し前の私はそうだった。気になったドラマやアニメを一気見したり、オモコロで大笑いしたり、ナポリやすぎるの配信を垂れ流して生活していた。でも、今の私はあまりにも疲れすぎていて、製作者の「楽しませるぞ!」「伝えるぞ!」というエネルギーに触れられないのだ。そんなこんなで、YouTubeで雨の降る音ばかりを聴いている。自然の音には意志とか感情がないから疲れない。リラックスできる。ここ数日は家にいる時も、移動中も、就寝時も、ほとんどの時間を雨音を聴きながら過ごしている。その合間に疲れなさそうなもの、もしくは、好きだから観ておきたいもの(例えば、大豆田とわ子と3人の元夫とかナポリの男たちのマイクラ配信とか)をちょこちょこと観ている。

 

そんな状態なので、恋人といる時はともかく、ひとりになると食べる気力が失せる。でも食べないと食べないことによって余計に食べられなくなりそうだから頑張って食べている。今、私にとって、ひとりで食べるご飯は楽しみではなく、淡々とこなせる習慣でもなく、果たすべき義務になりつつある。

「頑張って食べる」ということを自分がする日がくるとは思わなかった。すごく疲れた日の終わりにスーパーに行って、何を食べたらよいか分からず「あれも違う」「これも違う」と、スーパーをただただ徘徊する「スーパーゾンビ」になることはこれまでにも多々あったけれど、そんな時でも「食べる気持ち」は失っていなかったし、食べることを義務だと感じたこともなかった(その時食欲がなくても、後で必ず何か食べたくなるから、食べたい時に食べたいものを食べりゃいいじゃん、と思えた)。料理も製菓も基本的には好きな方だし、今の物件に決めたのもガスコンロと広いキッチンがあるからだ。自炊はいつも私の身近にあった。

しかし今は、何かを作る気にならない。キッチンでガスコンロに火をつけて何かを茹でたり炒めたりするのがめんどくさい。食べなければ…という思いはあるものの、何も食べたいものがない。作る手間がほとんどなく、かつ、私が食べたいと思えるものなんて世界にはほとんどないのだ。近所には大手外食チェーンがいっぱいだし、お弁当屋さんも近くにあるけど、固形物で、しかも味の濃いものを口に入れる気にはならない。

そうなると、導き出される食品はたった一つだ。そう、お粥である。レトルトパウチのお粥なら食べられるし、食べたいとも思える。調理も簡単だ。

スーパーに行ってお粥を探し、棚の間をさまよい歩いた。私は普段、風邪も病気もほとんどしない健康体なので、お粥がどこにあるかなんて把握していなかった。とりあえず頭上の案内プレートで「レトルト」の文字を探してそこに向かった。果たしてそこにお粥はあった。でも、そこにあるお粥は私の求めているものとは少し違った。私が欲しいのは「フリーズドライ!かに雑炊」とか「ご飯があれば1分でできる!ちょっとぞうすい」とか「干貝入り粥」とかではない。もっと普通の、梅とか卵とかしゃけとかが入っていて、ご飯さえ用意する必要がない、完成済みのシンプルなお粥なのだ。そんな最も基本的なお粥がないわけがないと思って、他の棚も当たってみようと後ろを振り返ったら、「介護食」のコーナーがあった。そこには、飲み物にとろみをつけるための粉とか、レトルトパウチの「やわらかご飯」とか「おじや 親子丼風」とかが置いてあった。それを見て思い出されることがあった。私は昔、高齢者施設で働いていた。そこには、ご飯を食べない人というのはまあまあいて、でも「ご飯を食べられなくなったら終わり」だから、そういう人たちにも何とかご飯を食べてもらっていた。お風呂に入りたくない気持ちは当時も理解していたが、「ご飯を食べたくない気持ち」は今いちピンと来ていなかった。でも、なるほど、彼らはこういう気持ちだったのか、とその時理解した。スーパーに並ぶ色とりどりのパッケージを見てもどれにも惹かれない。空腹なのに食べる気にならない。食べるのには想像以上に気力がいる。生きる意志がなければ、食べる意志も生まれない。「食べられなくなったら終わり」なのは本当なのだ。食べることと命を続けていくことが一本の太い線で繋がっていることを、こんなにはっきりと認識したことはなかった。

結局、お米の棚に私の求めるお粥があったので、数パック買って帰った。

以下、努めてずぼらして食べたレポ?です。何もかもがめんどくさい時にはこういう方法もどうでしょう。ガスコンロでお湯沸かさなくていいし、皿洗いもしなくていいです。

 

おかゆをケトルに突っ込んでそのままお湯を沸かします。(このケトルはいらないからって元ご近所さんの田中さんがくれました。田中さんありがとう。おかげで飯食えてます。)

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②沸いてしばらくして、あったまったかな〜と思ったらタッパーに袋ごと移します。

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③袋をタッパーの高さに合わせてハサミで切ります。
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④袋のまま食べます。

 

頑張ってずぼらして食べたお粥は、温かくてやさしくておいしかった。お粥を食べたら少し元気が出て、冷凍してたラタトゥイユをレンチンで解凍できたから、ラタトゥイユも食べた。

生きるために工夫している私えらいな。生きるためのずぼらはどんどんしていこうね。

 

 

2021/6/6

日報 / 時系列順・つらつら・断片的

 

折り畳み自転車を担いで玄関の扉を開けたら雨が降っていた。まじか、と呟いてそのまま部屋に戻り自転車を置いて、代わりに傘をさして外に出た。外出しようがしまいが、洗濯しようがしまいが、天気予報を見る習慣が私にはない。

外出の目的は「図書館に行って予約していた本を借りること」だ。それさえできればよいので、途中でどんな寄り道をしてもよい。後の行動は全て私の気分次第だ。まあ「図書館に行って予約していた本を借りること」を目的と設定したのも私だから、その目的を撤回して、何もせずに帰ってきてもよい。どうしたってよいのだ。全ての判断が私に委ねられている。こういう状況が一番好ましい。

 

図書館までの道には公園がある。公園の前を通りかかったら中にこれがあったのでとりあえず通り抜けてみた。

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傘を開いたまま通ったら途中で傘の先が網目に引っかかった。そりゃそうだ。先を網目から外して通り抜けた。トンネルを抜けると少し先、公園の隅の隅にあるコンクリート製の小屋の屋根の下で、中年男性と思しき人がビニールシートを敷いてひとりぽつんと座っているのが見えた。私もこの公園に長時間滞在するならそこを選ぶだろうなあ…と思った。

 

何だか今日はいろんな人とか物が、意味のあるように目に映る日で、公園ですれ違った人たちの顔とか、紫陽花の色とか、小さな噴水の水の流れとかその音とか、子どもを遊ばせていた男性が履いていたジーンズのくたくたの、やわらかな曲線とか、そういう物がいちいち目に入った。鮮明に全て思い出されるわけじゃないけれど、それらの印象が頭の中にまだ残っている。経験上、それらがすぐに消えるのは分かっている。脳の川にイメージがたゆたう時間が少し長いだけで、そのうち流れ去ってしまう。別に惜しくはない。私はいろんなことをすぐ忘れる。

 

公園には使われなくなった機関車とか電車が遊具として置いてあることがまあまああると思うが、この公園もそうで、もう乗り物としては使われない、いろんな乗り物が遊具として置いてある。私はこういうのが大好きなので、ひとりだったけれど滑ったり、中を見て遊んだ。こういう時、私は私の無害そうな外見を便利だと思う。周囲から危険だと思われなければ、何をしても咎められることはそうない。

 

なおもふらふらしていると、遊具に描かれたプリンの絵を見つけた。(このプリン…塗り直されている…!?!?)私は少しショックを受けた。塗り直される前のプリンの方が好きだったからだ。少し前、恋人と夜にこの公園に来たことがあった。その時に(いいプリンだな〜)と思って写真を撮ったそのプリンが、鮮やかな色のペンキで塗り直されている。前のプリンの方がよかった…あのプリンはもう二度と戻ってこない。


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まだまだふらふらしていると公園の休憩所なるものを見つけた。出入り口の引き戸のガラス部分にはワクチン接種を呼びかけるビラが貼ってあった。プレハブ製の小屋だけど、それなりにスペースがあって、中には、テーブルやベンチが数セット、掲示板、自動販売機、作りは粗いが授乳室さえあった。誰もいなかったし、遊具のある場所から少し離れているので、少し座ってじっとしようかと思ったけれど、戸の外に人影が見えたのですぐに離れた。「この休憩所にある自販機のドリンクを補充しに来る人」のことを脳みそが勝手に考えた。その人が訪れる時、この場所はいつもどんな風だろうか。常に人がいないわけじゃないんだろうけど、羨ましいな。

 

その後、公園の芝生部分をずんずん進んでいると、足元で何かが飛び跳ねた。バッタだった。1-2センチくらいの大きさで、それくらいの大きさなら虫が苦手な私でもしゃがんでじっくり見るのに問題はなかった。小さなバッタを見るのは久し振りなので写真に収めようとしたが、芝生の上のバッタは芝生と見分けがつかない。小さいからなおさらだ。擬態という生き物の仕組みに感心して公園を後にした。一応ここに写っていると思うんだけど、見つけられますか?

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道道で紫陽花を見かけたときもつい立ち止まってしまったけれど、この野花を見つけた時も立ち止まってしまった。この赤さすごくない?自然の色ってすげ〜と思う。一番きれい。

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歩道の脇に立ち止まってその花を見ていたら、右手からカツカツカツと音が聞こえた。顔をあげると、ツヤのある素材でできたペールカラーの膝丈ワンピースに、透け感のあるボレロを羽織った女性が、同じく淡い色のヒールを履いて駅の方へ走っていった。(結婚式に遅れそうになっている人だ!)と咄嗟に思った。結婚式に向かっている時って、完全に「結婚式に向かっている人」以外の何者でもなくなってしまう。結婚式という非日常の場に着いてしまえば馴染めるけど、ザ・非日常の格好で、人々の日常の中を通り抜けていくのってなんかちょっと恥ずかしいし、自分の外出の目的が周囲にもろばれなのもなんだか居心地が悪い。全くもって仕方のないことだし、タクシーに乗るほどその状況を忌避しているわけでもないけれど。

 

ある寂れた工場の横っちょについてた茶色の軽そうなドアに「SEGA」っていう表札が貼ってあって、(ぜってえうそだろ)と思ってたら図書館に着いたので、本を4冊借りた。

 

 

この上なくやさしい丸

2021/5/26

 

「今日スーパームーンらしいですよ」

隣にいた恋人がLINEの画面を見せてきた。そこには、恋人のお母様から恋人へ「今日スーパームーンだけど、こっちは曇りで見られなかった」というメッセージ。

「へえ〜、そうなんや!」「見えるかな?」

すぐにベランダに続く窓を開けて、空を見た。だけど方角の問題か、月は全く見つからない。代わりに、向かいの家の屋上に、いつもは見ない人影を見つけた。成人男性のように見える。あの人もスーパームーンを探しているに違いない。

「外出たら見えるかな?」「出てみよっか」

一緒に観ていた「珈琲いかがでしょう」を一旦止めて、スーパームーンを探しに外に出ることにした。

 

「見えないですよ!」

マンションの共通玄関を出て、わずか30秒でそう声をかけられた。溌剌とした声の主は、道の向かいから来ためがねの見知らぬ中年男性だ。空を見上げて歩く私たちを見て、スーパームーンを探す同士であると判断したのだろう。

声をかけられた瞬間、私の脳内には「どこから見られてたんですか?」「あ、そうなんですか〜!残念です!」などと感じ良く返事をする声が響いていた。しかし、結局私の口から漏れ出たのは…

「は、ふえぇ」

という何の意味も成さぬ言葉だった。

「は、ふえぇ」て。知らない人からいきなり話しかけられることが最近ほとんどないので、反射神経が完全に衰えてしまっているのだ。コロナ前であれば、気の利いた一言とは言わずとも、上記のようなことを何となく伝えられたはずなのに、今やすっかりコミュニケーションにおける瞬発力がなくなってしまった。

 

顔を真上に向けて「見えるかな」「見えるかな」と言いつつ、馴染みのない住宅街をぶらぶらしたけれど、結局スーパームーンは見えなかった。おそらく雲が多かったせいだろう。中年男性の言葉通りの結果となった。

「あの人が言ってた通り見えんかったね」

「確かに。あの人、けっこう探し回った後感あったもんな」

スーパームーン見えんくても、あれがあったから外に出たかいあった」

「確かに〜。知らん人に突然話しかけれたん久しぶりやわ、最近声かけづらいしね」

などと話しながら家路についた。そういえば近頃は、道端で誰かが落としたものを拾って声をかけたりすることも憚られる。知らない人に声をかけたり、かけられたりすることがほとんどない状況下では、「見えないですよ!」の一言が、"外出した意味"にさえなるのだ。

 

初対面や微妙な距離感の人と話すとき、天気の話を振るのはあまりにも安易だから避けられる傾向にある、ような気がする(少なくとも私は「話題に困ったときに天気の話を振るのは逃げ」という言葉を聞いたことがある)。しかしながら、天気や季節の話は全人類に共通する話題で、かつ、人を不快にする可能性がほとんどない、むしろものによってはお互いが楽しかったり穏やかな気持ちにさえなるという珍しい話題なのだ。

恋人のお母様も、屋上で見た成人男性(と思われる人)も、すれ違っためがねの中年男性も、私たちも、みんな「スーパームーン」に興味を惹かれて空を見上げていたが、あの日どれくらいの人が同じように空を見上げて、大きくてまん丸い月を探していたのだろうか。きっと、老若男女無数にいるはずだ。その無数の人たちが、その日のスーパームーンについて「見れた」とか「見えなかった」だとか話したとしても、その中の誰も誰かを傷つけないし、誰も誰かに傷つけられないだろう。実際、見知らぬ中年男性に突如声をかけられた私たちは「久しぶりに知らん人に声かけられた〜!すげ〜!」と盛り上がりこそすれ、不快になることは全くなかった。もし、これが他の話題だったらこれほどポジティブな感情にはなっていなかっただろう(例えば道聞かれるとかでも、スマホで調べればよくない…?なんでわざわざ聞く…?とか思ってしまう)。話題によっては、恐怖心さえ抱く可能性もあったはずだ。だからやっぱり、天気とか季節の話ってすごいな〜と思う。こんなに振りやすくて、全員にやさしい話題って他にない。

 

見知らぬ人と気兼ねなく会話できるようになるのはきっとまだ先だから、私のコミュニケーションにおける瞬発力は引き続き失われていくはずだ。どんなことを言われても「ふえぇ」「はへぇ」としか返せなくなるかもしれない。

だからこの先、初対面の人と話す機会が増えたときは、堂々と天気の話をしようと思う。最高に衰えたコミュ筋でも天気や季節についてなら話せるし、それらはこの上なくやさしい丸で私たちを囲って、みんなが安心できる場所を作ってくれる。

 

スーパームーンが見られなくて写真がないので、代わりに何か丸いものをと思い探したら出てきた光る腕輪の写真です。つけて夜散歩するととても楽しいのでおすすめです。

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J列の3人

2021/4/23

 

この日私は、ジーンズのポケットにBluetoothイヤホンと一緒に石を押し込んで、多幸感溢れる春の日差しの中へ躍り出た。持ち出した石は12月に大磯で拾った、薄緑のしましま模様のもの。持ち出したのに特に理由はなくて、何となく思い立ったので実行してみた。静かで丈夫で小柄だから、いつでも持ち歩ける。そんなところも、石のいいところのひとつだ。

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いい石をポケットに潜ませた私は、映画開始の1時間前に劇場に着いた。「ノマドランド」を観るためだ。人は普通にいたが、平日の昼間なので混雑はしていない。

自動券売機で、"本日購入分のチケット"に進む。ここでいつも悩むのが、座席位置の選択だ。比較的小さな劇場では、窓口のお兄さんやお姉さんから直接チケットを購入することになるので、彼ら彼女らにどの席が観やすいか尋ねて購入するのだけれど、自動券売機ではそうはいかない。だから、自分でシアターの大きさを想像して、観やすい位置はどこか考えなくてはいけない。自分の頼りない予想だけが頼りなのだ。

画面で席数を見るに、それほど大きいスクリーンだとは思えなかったので、少し後ろのJ列、そして、同じ列を購入している人はまだ誰もいなかったので、列の中央に飛び込んだ。(このまま周りに誰も来るなよ…!)と思いながら、上映までの時間を潰すために本屋に向かった。

 

上映開始10分前に入場した。自席についてみると、スクリーン全体がちょうど視界に入るし、中央だから観やすいしで、私は過去の私の判断に深く満足した。これはベストチョイスだったのでは…。

スクリーンに流れる予告や宣伝を見流しつつ、映画を見る体勢を整えていると、J列通路の左側から人間がやってきた。視界の端で捉えたその姿は……おじさんだ!オーバーサイズのスーツに身を包んだザ・おじさんがこちらに向かってきていた。(どこで止まるんだろうまさか隣ではあるまい…)と多少ハラハラしながら注意を向けていたら、おじさんは私から2席空けて隣の席に座った。ほっとする。2席空いているならそれほど気にならない。私は再び注意をスクリーンに向けた。

それからおよそ5分後、再びJ列通路の左側から人間がやってきた。視界の端で捉えたその姿は……またおじさんだ!オーバーサイズのスーツに身を包んだザ・おじさんがこちらに向かってきていた。どの席に来るんだ…?とまたもハラハラしながら出方を伺っていると、そのおじさんは、片手で軽く連続チョップするような仕草をしながら(すいませんよっと)とでも言うような感じで私の前を通りすぎ、私から2席空けて隣の席に座った。(は、挟まれた…)それぞれ2席ずつ空いているとは言え、私は左右をおじさんに挟まれてしまったのだった。

私がおじさんという存在に偏見を持ってしまっていることは認めざるを得ない(今までの人生で、おじさんに関するいい思い出がないのだ)。けれどもちろん、両隣に座ったこのおじさんたちが私に不利益や不快感をもたらすとは限らない。それに、彼らが両隣にいるのは映画の間だけなのだし、その上2つも席が空いているのだから、特に問題はないだろうと思って静かに上映を待った。

 

その音に気がついたのは、本編が始まってすぐだった。スー、スー、スー、スーと一定間隔で聞こえてくる。

 

(鼻息だー!)

 

おじさんの鼻息だった。しかも驚いたことに、鼻息は両方向から聞こえてくる。右おじさん左おじさんともに鼻息が荒いタイプの人だったのだ。しかも、さらに悪いことに、彼らの鼻息のリズムは一拍分ずれていて、だから、スー(右)スー(左)スー(右)スー(左)と左右から間断なく鼻息が聞こえてくるのだ。

 

(鼻息のサラウンドやめてー!!!)

 

フランシスマクドーマンドの渋い演技を目の当たりにしながら、内心でこんなことを叫ぶ羽目になってしまった。せめて、鼻息のリズムが揃っていたら、実質聞こえる鼻息の数はひとり分だったのに…。

ノマドランドは静かな映画だから、BGMや環境音に阻まれることなく、本編と同じだけの時間、2人の鼻息の音は私の耳に届き続けることになった。

しかも、彼らは感情を素直に表現するタイプの人たちでもあった。どういうことかというと、本編のところどころで両隣から同時に「あっはっは」という笑い声とか「う〜ん」という唸り声とかが聞こえてくるのだ。特に右おじさんはその兆候が顕著で、本編開始前の「紙兎ロペ」に対してでさえ、「ふっふっふっ」と声を出して笑っていたから、(この程度のユーモアで!?)と驚いていたのだが、まさかこれほどまでだとは予想できなかった。別にいいねんけど、別にいいねんけどさあ…静かに観たいよね…。

 かくして「素直に感情表現おじさん」に挟まれた私は、鼻息のサラウンドに包まれながら、この席を選んだことを深く後悔したのであった。

 

 

とか言っている私なのだが、私とて石を連れて映画を観にきている(彼らから見ればおそらく)おかしな人間なので、人のことを言える立場ではない。

映画を観るときは、前情報をできるだけ入れないようにして行くので驚いたのだが、「ノマドランド」には石がたくさん出てくる。主人公のファーンは石屋さんでバイトをするし、さらに、石を愛する人間が、主要キャラクターに2人も存在するのだ。ひとりは、ファーンに好意を抱くデイヴだ。彼はノマドを辞めて息子の家に身を寄せることになるのだが、その時に「(息子の家に)いつかおいで、たくさん石を見せてあげる」という置き手紙と共に、餞別として石をファーンにプレゼントする。

もうひとりは、スワンキーだ。彼女はベテランノマドで、ファーンにノマドの極意を教えてくれる女性なのだが、彼女は自他共に認める石好きで、「私が死んだら、焚き火に石を投げ入れて私のことを思い出して欲しい」とファーンに言い残す。製作陣の意図なのか、原作の舞台が影響を与えているのか(おそらく後者だろう)分からないが、とにかく石が映画の中で重要なポジションを占めている。

そんな映画を観ているうちに(これはポケットの中の石にもスクリーンを観せてあげるべきなのでは…?)という気持ちになってきたので、ごそごそとポケットから石を取り出してみた。場面はちょうど、仲間たちが焚き火を囲み、亡くなったスワンキーを弔っているところで、スクリーンは、仲間たちひとりひとりがスワンキーを思いながら、石を焚き火に投げ入れるところを映していた。手に薄緑色の石を握りながらそのシーンを観ていた私は、まるで自分もその場面に参加しているような気分になった。世界広しといえど、劇場で石と一緒に「ノマドランド」を観ている女はいないだろう。本当に何となくの思いつきだったけれど、石を連れて出てよかった。

両隣だった感情素直に表現鼻息荒いおじさんたちもまさか、隣の女が石を手に持って鑑賞しているとは夢にも思わなかっただろうな…けけけ…とよく分からない満足感を得て劇場を後にしたのだが、振り返ってみると、あの日あの時J列に並んで座った我々3人はなかなかファンキーな面々だったなあ…と思うのであった。

 

過去現在未来の子どもたちが蠢く場所、あるいは結婚式

先日、友人のCが結婚式を挙げた。私は新婦側の友人としてその式に出席した。

新婦である彼女は、中学時代から深い交流を続けてきたいわば親友だ。小学校時代は同じクラスになることがなかったため、親しく口をきく仲ではなかったけれど、Cは私が当時親しくしていた女の子・Aちゃんの友人だったため、当時から2人ともお互いを認識はしていた。小学校卒業時、Aちゃんは中学受験をして、地域外の私立中学校に進学した。一方、同じ地域の公立中学校に入学した私とCは、中1で同じクラスになり、友だちの友だちであるということがきっかけで話すようになった。次第にお互いのおもしろさを発見していった私たちは、そのまま親友と呼べる関係になった。

中学時代には、暇に任せてくだらない遊びを散々して毎日大笑いしたり、交換ノートに2人でリレー小説をしたためたり、生徒会の仕事でたまたま2人だけになった体育館の舞台上でQUEENのI Was Born To Love You(英語の授業で習った)をマイクを使って熱唱したりした。

高校では、思春期ゆえに今よりもかなり肥大した自意識を持っていた私のひねくれた考えに耳を傾けてくれたし(当時私は、他人は全員私のことが嫌いだという前提で生活していた)、また、彼女のドライとも言える非常に合理的な考え方は、私に衝撃と共に救いを与えてくれた。テスト前は彼女の家で"テスト勉強会"と称して集まることもあったが、結局延々とアニメHUNTER×HUNTERを観ていた気がする。

大学生になって違う学校に通い始めても交流は絶えることがなく、彼女の論理的かつ合理的な考え方は、ウェットで細かいことを気にしてしまうタイプの私をしばしば助けてくれた。

 

結婚式当日に案内されたテーブルは3人席で、私以外の2人もそれぞれ彼女と小学校時代からの付き合いだった。1人は先述をしたAちゃん、もう1人はBちゃんである。Bちゃんも同じ小学校ではあるので、もちろん顔と名前はお互い知っているけれど、ほとんど話したことかないので、まともに口をきいたのは今回の結婚式が初めてだった。

3人の会話が始まってすぐに、Aちゃんが既婚者であり、子どもが2人いることが判明した。続いて、Bちゃんも既婚者で、子どもが1人いることが分かった。

私はテーブル唯一の未婚者であったわけだが、私には現在結婚したい気持ちや子どもを産みたい気持ちがほとんどないので、出産のときの様子だとか、産休明けの働き方だとか、ママ友の作り方だとかをただただ興味深く聞いた。生物学的に女性である以上、自らの腹の中に生命を持つ可能性があるわけだけれど、2人の子育ての話はまるで他人事のように思えた。まあ、実際に他人事ではあるのだが、自分もいつか同じ体験をするのかもしれないとはつゆとも思えず、まるで異世界で起こっている出来事かのように、2人の話を聞いていた。すると、あるタイミングでAちゃんが、「こういうところ来ると、いつか自分の息子も結婚するんやなあって思うわ〜。まだ全然小さいねんけどな」と笑いながら言った。Aちゃんは、華やかな衣装を着て幸せそうに微笑む新郎新婦を眺めながら、自分の子どもの結婚式に想いを馳せているのだった。その時私は、現在進行形の結婚式の場においては、参加者たちによって、すでに未来の結婚式が予測され得るのだということに気がついた。結婚式という場において、人々は自分の/他人の/自分の子どもの結婚式について、否応なく想いを馳せてしまうものであるようだ。例えばAちゃんのように、子どもがいる参加者は自分の子どもの結婚式を想像するかもしれないし、交際相手がいる参加者は交際相手との結婚式を想像するかもしれないし、交際相手がいない参加者やその周囲はその場で、彼ら彼女らが将来の配偶者と出会う可能性を考えるかもしれない(実際、Cの母親に「いい相手見つけていってや」と声をかけられた)。そして、結婚式(現在進行形)の場にはこうした未来形の結婚式だけでなく、同時に、過去形の結婚式も存在する。なぜなら、そもそもこの結婚式の主役たる2人は、2組の夫婦の結婚無くしては成立していないからだ(そして他ならぬ私自身も、ある夫婦の結婚の下に生まれた存在である)。

つまり、結婚式(現在進行形)という場は、過去、そして未来にわたるいくつもの結婚式が内包される空間なのである。そしてまた、「結婚」の先に想定され得る「子ども」という存在も、結婚式の場では、過去現在未来、全ての時制で蠢いている。壇上に立つ新郎新婦は、会場の後方の席で談笑している2組の夫婦の子であるし、その2組それぞれの夫婦は、また別の2組の夫婦の子である。そして、家系図の越し方に向けた視線を行く末に向けたとき、参加者たちは新郎新婦(もしくは自分が/他人が/自分の子どもが)がもうけるかもしれない未来の子どもについても、想いを馳せる…かもしれない。私は、結婚式(現在進行形)という場において、そこに参列している人々の存在を成立させている過去の子どもたちやその親、これから存在するかもしれない未来の子どもたちやその親がまるで幽霊のように、そこに存在している生者と共に蠢いているようなイメージを抱いた。

「結婚式(現在進行形)という場所は、過去未来にわたるいくつもの結婚式を内包し、また過去現在未来の子ども達が蠢く場所である」

式に参加しながら、自分がぼんやりと考えていたことを、言葉にしてまとめるとこのようになる。だが、これは参加して数日の後に私の脳内をまとめたものであって、式に参加している最中は(人間…子孫繁栄…reproductive…)みたいな単語が脳内を占めていた。人間の営みの果てしなさみたいなものに対して、めまいのような感覚を抱いていた気がする。決して畳まれず広がり続ける大風呂敷、みたいなイメージが脳裏にあった。

私がこんな感覚を抱いたのは、自分がその再生産活動の外側にいるという自覚があるからだと思う。私は再生産活動の結果生まれた存在ではあるが、自分が再生産活動の当事者になることはないだろう、というぼんやりとした思いがある。生涯を通じて、実際に子どもを産まないまま死ぬかというのはまだ分からないけれど、今のところ、子どもを産みたいという気持ちは全くないし、結婚を強く望む気持ちもない。周囲から無意識的に期待される「普通」の道を歩むことにはならないだろうなあ…という、そんな感覚が自分自身を、俯瞰的な立ち位置に連れていったのだと思う。一応言っておくと、この話は結婚とか出産の是非に関するものではもちろんない。ただ、結婚、特に出産に関して、自分がその当事者にはならないであろうと感じている人間が結婚式に参加した際の、ただの感想である。かなり世間の「普通」を前提としてこの記事を書いてしまった自覚があるので、「好きな人同士が、好きなように、好きなだけ一緒にいたらいいやんか〜」というのが大学時代から変わらぬ私の考えである、ということを最後に念のため記しておく。

 

私と石、相反するもの

さっき歯を磨きながら自室の石ころたちを手にとっていくつか眺めていたら、ふと(私と石って正反対だな!?)とハッとしたので、その衝撃そのままに書き出してみる。記事に上げられるほどの分量が書けるかどうか不明だけどとりあえず走り出してみます。

 

私は自他共に認める(どれほどの他が認めてくれるかは分からないけれど、一定数は認めてくれると思う)気分屋だ。自分の気分の目まぐるしい変わりように、自分自身が疲れてしまうほどの気分屋なのだ。例えば、私は夕食に何を食べるか事前に決められない。お昼を食べている時に(晩ご飯はから揚げがいい!そうだ、今日はから揚げだ!)と決心していても、数時間後、家路につく電車の中では(やっぱり野菜が食べたいな〜、ラタトゥイユか?よっしゃラタトゥイユにしよう!)となるし、ラタトゥイユだ!材料を買うぞ!と思ってスーパーの自動ドアをくぐる頃には(あれ、やっぱりそばかな…?)となるし、そばを買って帰っていざそばを茹でる段になると、(やっぱりそばじゃない気がするな…?)となって、結局冷蔵庫にある鳥もも肉を塩胡椒で焼いて食う、みたいな結果になる。だから、「明日の晩ご飯はもう決まってるんだよね、カレーにすんの。日曜に材料買っちゃったからね」とか、月曜の夕方に宣言できる同期のことは本当に尊敬する。なんでそんなことができるの?明日の晩のあなたがカレーを食べたい気持ちである(食べたいという積極的な気持ちまでいかずとも、まあ食べてもよいだろうという状態である)と今のあなたがどうして確信できるの?と思ってしまう。明日の晩に自分が何を食べたくなるかなんて全く分からないじゃないか!と。

(しかしながら、彼は「月曜カレー、火曜ハンバーグ、水曜麻婆豆腐、木曜焼きそば、金曜オムライス…みたいなルーティーンでいいわ」というタイプなので、そもそも食にそこまでのこだわりがないのかもしれない。私は食にこだわりがある、というよりは自分の気分、つまり、その時自分が何を食べたいか/作りたいか、を最優先にしている節があるので、私と彼の感覚の乖離は致し方ないことなのかもしれない。)

そんな私の気分屋加減に、私自身が振り回されて疲れてしまうのだ。気分がAだったのにMになって、MだったのにTになって、TだったのにXになって…その時々の自分の気分に合わせて行動するけれども、その気分が変わる可能性を十分に心得ているから、紆余曲折あってたどり着いたXが本当に結論なのかも分からない。終わりが見えないのだ。しかも、いろんな種類の中から一つ選ぶという作業だけでなく、YES or NOの二者択一型の選択でさえも同じで、朝は行くつもりだったのに、直前になって行きたくなくなったり、逆に行く予定でなかったのに、突如思い立って行くことにしたり。そうやって、いろんな方向に目まぐるしく変化していく自分の感情についていけなかったり、驚いたり、疲れたりすることがまあたまに結構ある。

「人間は変化する生き物だ」と言う時、ここでの「変化」は、ある程度の期間を想定している。けれど、私の場合はそれだけでなく、一日単位で情緒や気分の激しい変化を経験する。そんな私と石はまさに正反対の存在だ。こんなにも情緒不安定で気分屋な私がどたばたと生活する狭い部屋で、じっと静かに佇んでいる石。気分屋の私だが、物言わず、絶対に変化しない彼らを美しい、好きだと思う気持ちは変わらない。歯を磨き終わったのと同時にそれに気がついて、なぜか少しほっとした。私の部屋に石が、今日もいてくれてうれしい。

 

 

石の話ついでに、最近の石ニュースは、「よつばと!」の15巻で石拾いががっつりフィーチャーされていたことです。しかも、舞台が比較的最近行った大磯だった。自分が見たことのある風景が漫画になっていたし、石の描写も言うことないしで大興奮でした。大磯の石たちとスナフキンです。

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