過去現在未来の子どもたちが蠢く場所、あるいは結婚式

先日、友人のCが結婚式を挙げた。私は新婦側の友人としてその式に出席した。

新婦である彼女は、中学時代から深い交流を続けてきたいわば親友だ。小学校時代は同じクラスになることがなかったため、親しく口をきく仲ではなかったけれど、Cは私が当時親しくしていた女の子・Aちゃんの友人だったため、当時から2人ともお互いを認識はしていた。小学校卒業時、Aちゃんは中学受験をして、地域外の私立中学校に進学した。一方、同じ地域の公立中学校に入学した私とCは、中1で同じクラスになり、友だちの友だちであるということがきっかけで話すようになった。次第にお互いのおもしろさを発見していった私たちは、そのまま親友と呼べる関係になった。

中学時代には、暇に任せてくだらない遊びを散々して毎日大笑いしたり、交換ノートに2人でリレー小説をしたためたり、生徒会の仕事でたまたま2人だけになった体育館の舞台上でQUEENのI Was Born To Love You(英語の授業で習った)をマイクを使って熱唱したりした。

高校では、思春期ゆえに今よりもかなり肥大した自意識を持っていた私のひねくれた考えに耳を傾けてくれたし(当時私は、他人は全員私のことが嫌いだという前提で生活していた)、また、彼女のドライとも言える非常に合理的な考え方は、私に衝撃と共に救いを与えてくれた。テスト前は彼女の家で"テスト勉強会"と称して集まることもあったが、結局延々とアニメHUNTER×HUNTERを観ていた気がする。

大学生になって違う学校に通い始めても交流は絶えることがなく、彼女の論理的かつ合理的な考え方は、ウェットで細かいことを気にしてしまうタイプの私をしばしば助けてくれた。

 

結婚式当日に案内されたテーブルは3人席で、私以外の2人もそれぞれ彼女と小学校時代からの付き合いだった。1人は先述をしたAちゃん、もう1人はBちゃんである。Bちゃんも同じ小学校ではあるので、もちろん顔と名前はお互い知っているけれど、ほとんど話したことかないので、まともに口をきいたのは今回の結婚式が初めてだった。

3人の会話が始まってすぐに、Aちゃんが既婚者であり、子どもが2人いることが判明した。続いて、Bちゃんも既婚者で、子どもが1人いることが分かった。

私はテーブル唯一の未婚者であったわけだが、私には現在結婚したい気持ちや子どもを産みたい気持ちがほとんどないので、出産のときの様子だとか、産休明けの働き方だとか、ママ友の作り方だとかをただただ興味深く聞いた。生物学的に女性である以上、自らの腹の中に生命を持つ可能性があるわけだけれど、2人の子育ての話はまるで他人事のように思えた。まあ、実際に他人事ではあるのだが、自分もいつか同じ体験をするのかもしれないとはつゆとも思えず、まるで異世界で起こっている出来事かのように、2人の話を聞いていた。すると、あるタイミングでAちゃんが、「こういうところ来ると、いつか自分の息子も結婚するんやなあって思うわ〜。まだ全然小さいねんけどな」と笑いながら言った。Aちゃんは、華やかな衣装を着て幸せそうに微笑む新郎新婦を眺めながら、自分の子どもの結婚式に想いを馳せているのだった。その時私は、現在進行形の結婚式の場においては、参加者たちによって、すでに未来の結婚式が予測され得るのだということに気がついた。結婚式という場において、人々は自分の/他人の/自分の子どもの結婚式について、否応なく想いを馳せてしまうものであるようだ。例えばAちゃんのように、子どもがいる参加者は自分の子どもの結婚式を想像するかもしれないし、交際相手がいる参加者は交際相手との結婚式を想像するかもしれないし、交際相手がいない参加者やその周囲はその場で、彼ら彼女らが将来の配偶者と出会う可能性を考えるかもしれない(実際、Cの母親に「いい相手見つけていってや」と声をかけられた)。そして、結婚式(現在進行形)の場にはこうした未来形の結婚式だけでなく、同時に、過去形の結婚式も存在する。なぜなら、そもそもこの結婚式の主役たる2人は、2組の夫婦の結婚無くしては成立していないからだ(そして他ならぬ私自身も、ある夫婦の結婚の下に生まれた存在である)。

つまり、結婚式(現在進行形)という場は、過去、そして未来にわたるいくつもの結婚式が内包される空間なのである。そしてまた、「結婚」の先に想定され得る「子ども」という存在も、結婚式の場では、過去現在未来、全ての時制で蠢いている。壇上に立つ新郎新婦は、会場の後方の席で談笑している2組の夫婦の子であるし、その2組それぞれの夫婦は、また別の2組の夫婦の子である。そして、家系図の越し方に向けた視線を行く末に向けたとき、参加者たちは新郎新婦(もしくは自分が/他人が/自分の子どもが)がもうけるかもしれない未来の子どもについても、想いを馳せる…かもしれない。私は、結婚式(現在進行形)という場において、そこに参列している人々の存在を成立させている過去の子どもたちやその親、これから存在するかもしれない未来の子どもたちやその親がまるで幽霊のように、そこに存在している生者と共に蠢いているようなイメージを抱いた。

「結婚式(現在進行形)という場所は、過去未来にわたるいくつもの結婚式を内包し、また過去現在未来の子ども達が蠢く場所である」

式に参加しながら、自分がぼんやりと考えていたことを、言葉にしてまとめるとこのようになる。だが、これは参加して数日の後に私の脳内をまとめたものであって、式に参加している最中は(人間…子孫繁栄…reproductive…)みたいな単語が脳内を占めていた。人間の営みの果てしなさみたいなものに対して、めまいのような感覚を抱いていた気がする。決して畳まれず広がり続ける大風呂敷、みたいなイメージが脳裏にあった。

私がこんな感覚を抱いたのは、自分がその再生産活動の外側にいるという自覚があるからだと思う。私は再生産活動の結果生まれた存在ではあるが、自分が再生産活動の当事者になることはないだろう、というぼんやりとした思いがある。生涯を通じて、実際に子どもを産まないまま死ぬかというのはまだ分からないけれど、今のところ、子どもを産みたいという気持ちは全くないし、結婚を強く望む気持ちもない。周囲から無意識的に期待される「普通」の道を歩むことにはならないだろうなあ…という、そんな感覚が自分自身を、俯瞰的な立ち位置に連れていったのだと思う。一応言っておくと、この話は結婚とか出産の是非に関するものではもちろんない。ただ、結婚、特に出産に関して、自分がその当事者にはならないであろうと感じている人間が結婚式に参加した際の、ただの感想である。かなり世間の「普通」を前提としてこの記事を書いてしまった自覚があるので、「好きな人同士が、好きなように、好きなだけ一緒にいたらいいやんか〜」というのが大学時代から変わらぬ私の考えである、ということを最後に念のため記しておく。