J列の3人

2021/4/23

 

この日私は、ジーンズのポケットにBluetoothイヤホンと一緒に石を押し込んで、多幸感溢れる春の日差しの中へ躍り出た。持ち出した石は12月に大磯で拾った、薄緑のしましま模様のもの。持ち出したのに特に理由はなくて、何となく思い立ったので実行してみた。静かで丈夫で小柄だから、いつでも持ち歩ける。そんなところも、石のいいところのひとつだ。

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いい石をポケットに潜ませた私は、映画開始の1時間前に劇場に着いた。「ノマドランド」を観るためだ。人は普通にいたが、平日の昼間なので混雑はしていない。

自動券売機で、"本日購入分のチケット"に進む。ここでいつも悩むのが、座席位置の選択だ。比較的小さな劇場では、窓口のお兄さんやお姉さんから直接チケットを購入することになるので、彼ら彼女らにどの席が観やすいか尋ねて購入するのだけれど、自動券売機ではそうはいかない。だから、自分でシアターの大きさを想像して、観やすい位置はどこか考えなくてはいけない。自分の頼りない予想だけが頼りなのだ。

画面で席数を見るに、それほど大きいスクリーンだとは思えなかったので、少し後ろのJ列、そして、同じ列を購入している人はまだ誰もいなかったので、列の中央に飛び込んだ。(このまま周りに誰も来るなよ…!)と思いながら、上映までの時間を潰すために本屋に向かった。

 

上映開始10分前に入場した。自席についてみると、スクリーン全体がちょうど視界に入るし、中央だから観やすいしで、私は過去の私の判断に深く満足した。これはベストチョイスだったのでは…。

スクリーンに流れる予告や宣伝を見流しつつ、映画を見る体勢を整えていると、J列通路の左側から人間がやってきた。視界の端で捉えたその姿は……おじさんだ!オーバーサイズのスーツに身を包んだザ・おじさんがこちらに向かってきていた。(どこで止まるんだろうまさか隣ではあるまい…)と多少ハラハラしながら注意を向けていたら、おじさんは私から2席空けて隣の席に座った。ほっとする。2席空いているならそれほど気にならない。私は再び注意をスクリーンに向けた。

それからおよそ5分後、再びJ列通路の左側から人間がやってきた。視界の端で捉えたその姿は……またおじさんだ!オーバーサイズのスーツに身を包んだザ・おじさんがこちらに向かってきていた。どの席に来るんだ…?とまたもハラハラしながら出方を伺っていると、そのおじさんは、片手で軽く連続チョップするような仕草をしながら(すいませんよっと)とでも言うような感じで私の前を通りすぎ、私から2席空けて隣の席に座った。(は、挟まれた…)それぞれ2席ずつ空いているとは言え、私は左右をおじさんに挟まれてしまったのだった。

私がおじさんという存在に偏見を持ってしまっていることは認めざるを得ない(今までの人生で、おじさんに関するいい思い出がないのだ)。けれどもちろん、両隣に座ったこのおじさんたちが私に不利益や不快感をもたらすとは限らない。それに、彼らが両隣にいるのは映画の間だけなのだし、その上2つも席が空いているのだから、特に問題はないだろうと思って静かに上映を待った。

 

その音に気がついたのは、本編が始まってすぐだった。スー、スー、スー、スーと一定間隔で聞こえてくる。

 

(鼻息だー!)

 

おじさんの鼻息だった。しかも驚いたことに、鼻息は両方向から聞こえてくる。右おじさん左おじさんともに鼻息が荒いタイプの人だったのだ。しかも、さらに悪いことに、彼らの鼻息のリズムは一拍分ずれていて、だから、スー(右)スー(左)スー(右)スー(左)と左右から間断なく鼻息が聞こえてくるのだ。

 

(鼻息のサラウンドやめてー!!!)

 

フランシスマクドーマンドの渋い演技を目の当たりにしながら、内心でこんなことを叫ぶ羽目になってしまった。せめて、鼻息のリズムが揃っていたら、実質聞こえる鼻息の数はひとり分だったのに…。

ノマドランドは静かな映画だから、BGMや環境音に阻まれることなく、本編と同じだけの時間、2人の鼻息の音は私の耳に届き続けることになった。

しかも、彼らは感情を素直に表現するタイプの人たちでもあった。どういうことかというと、本編のところどころで両隣から同時に「あっはっは」という笑い声とか「う〜ん」という唸り声とかが聞こえてくるのだ。特に右おじさんはその兆候が顕著で、本編開始前の「紙兎ロペ」に対してでさえ、「ふっふっふっ」と声を出して笑っていたから、(この程度のユーモアで!?)と驚いていたのだが、まさかこれほどまでだとは予想できなかった。別にいいねんけど、別にいいねんけどさあ…静かに観たいよね…。

 かくして「素直に感情表現おじさん」に挟まれた私は、鼻息のサラウンドに包まれながら、この席を選んだことを深く後悔したのであった。

 

 

とか言っている私なのだが、私とて石を連れて映画を観にきている(彼らから見ればおそらく)おかしな人間なので、人のことを言える立場ではない。

映画を観るときは、前情報をできるだけ入れないようにして行くので驚いたのだが、「ノマドランド」には石がたくさん出てくる。主人公のファーンは石屋さんでバイトをするし、さらに、石を愛する人間が、主要キャラクターに2人も存在するのだ。ひとりは、ファーンに好意を抱くデイヴだ。彼はノマドを辞めて息子の家に身を寄せることになるのだが、その時に「(息子の家に)いつかおいで、たくさん石を見せてあげる」という置き手紙と共に、餞別として石をファーンにプレゼントする。

もうひとりは、スワンキーだ。彼女はベテランノマドで、ファーンにノマドの極意を教えてくれる女性なのだが、彼女は自他共に認める石好きで、「私が死んだら、焚き火に石を投げ入れて私のことを思い出して欲しい」とファーンに言い残す。製作陣の意図なのか、原作の舞台が影響を与えているのか(おそらく後者だろう)分からないが、とにかく石が映画の中で重要なポジションを占めている。

そんな映画を観ているうちに(これはポケットの中の石にもスクリーンを観せてあげるべきなのでは…?)という気持ちになってきたので、ごそごそとポケットから石を取り出してみた。場面はちょうど、仲間たちが焚き火を囲み、亡くなったスワンキーを弔っているところで、スクリーンは、仲間たちひとりひとりがスワンキーを思いながら、石を焚き火に投げ入れるところを映していた。手に薄緑色の石を握りながらそのシーンを観ていた私は、まるで自分もその場面に参加しているような気分になった。世界広しといえど、劇場で石と一緒に「ノマドランド」を観ている女はいないだろう。本当に何となくの思いつきだったけれど、石を連れて出てよかった。

両隣だった感情素直に表現鼻息荒いおじさんたちもまさか、隣の女が石を手に持って鑑賞しているとは夢にも思わなかっただろうな…けけけ…とよく分からない満足感を得て劇場を後にしたのだが、振り返ってみると、あの日あの時J列に並んで座った我々3人はなかなかファンキーな面々だったなあ…と思うのであった。