顕現

この間、「おまじないだった言葉が現実になった」ということがあって、うれしかったので書きます。

 

9月のある日、友人Cから以下のようなLINEをもらった。

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(手のひらに乗ったアメジストの写真)

「ついに石デビューしたで よくあるアメジストやけど!」

「生きてるだけで尊いよ、まじで。最近家にいること長くてさ、昔、午睡に教えてもらった恩田陸の本のシリーズの新作読んだりとか、映画とか、モネの絵の良さ感じられることもあって、午睡って昔からセンス半端なかったんやなって思ったし、いろいろ教えてもらえて感謝しかない!」

「だから石も始めてみた(LINEの太ってる人の絵文字)」

「まずは鉱物からにするわ〜笑」

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友人Cは中学時代からの親友だ。彼女から6月末に連絡をもらっていたものの、その頃は、私が最も余裕のない時期だったのでまともな連絡ができず、「また連絡します!」と彼女に言ってから、ぐずぐずしている間に2ヶ月強が経ってしまっていた。

そんな中、Cから先日「おい、もう9月やでおい(LINEのおじいさんの絵文字)」「調子いかが?」とメッセージが届いた。

彼女のこの挨拶は(連絡した方がいいんやろうけど、まだ万全ではないし…でも、だいぶ時間経ってるしなあ…)と、ためらいと、申し訳なさと、後ろめたさとで湿って重くなっていた私の気持ちを一掃してくれた。連絡できなかったことを詫びる私の返信に続けて、冒頭に引用したメッセージが送られてきた。

そのメッセージを読んだとき、何とも言えない不思議な気持ちを感じた。しかし同時に、それをかき消すほどの大音量で、「びっくりするほどいいこと言ってくれるやん!!!!朝からめっちゃうれしいわ!!!!」という声が脳内に響き渡っていた。なので、そのときはその気持ちをそのまま文字にして返したのだけれど、もらった言葉がとってもうれしかったので、彼女にハガキを書くことにした。そしてせっかくだから、彼女のメッセージを読んだときに感じた「不思議な気持ち」の理由に、少し目を凝らしてみることにした。

 

彼女のメッセージを読んだとき、不思議な気持ちになった。それは、私が彼女にそれらを「教えた」記憶が全くなかったからだ。確かに私は中学生の頃、恩田陸が大好きで「麦の海に沈む果実」とか「黒と茶の幻想」とか、著者の本を夢中になって読み漁っていたし、オランジュリー美術館でモネの睡蓮を観たことは、貴重な経験として私の中に深く残っているけれど、それらを彼女に教えた記憶は全くないのだ。特に、恩田陸に関しては、昔自分が夢中だったことすら忘れていて、Cから言われて(そういえば好きだったなあ〜、懐かしい)と思い出したほどなのだ。

そんな、私自身すら忘れてしまっている過去の自分が、今のCの生活に影響を与えているというのは何だか不思議な気持ちがした。確かにそれは私だけれど、10年以上の「時間」を隔てた私で、今の私はその頃の私がどんな形だったのか思い出せないほどに、その頃とは違う形になっている。でも、その頃の私を形作っていたもの、つまり、好きだったものの一部を覚えていてくれる人がいる。それは「過去(の私)」という、記憶の闇に飲まれ、消え去ったように見えたものが、それでも確かに"在った"という証明だ。確かに、私は存在したのだ。私自身が忘れているにも関わらず。時間で編まれた手綱を現在から順に手繰り寄せていけば、その先には確かに、恩田陸を愛読し、モネの「睡蓮」に感動した私がいるのだ。

そして、その過去の私を構成していたもの、その一部がCによって切り取られ記憶されて、今の彼女の生活を彩るピースになっているということ、その事実が彼女から今の私にもたらされ、私を感動させたということ、その一連が「生きているだけで尊い」という、この言葉を証明しているような気がする。

 

「生きているだけで尊い

丸ままこの通りではないけれど、私はこの言葉に類する言葉を言ったことも、言われたことも、目にしたこともあって、それを私が他者に伝えるとき、例えば友人に言うときには、心の底から「私は、あなたがいてくれるだけでうれしいよ」という気持ちを込めて伝える。けれど、自分で自分にこの言葉を言うときはいつも、おまじないに近いような気持ちで唱えている…ような気がする。緊張したときに手のひらに「人」と書いて飲んだり、観客を全員じゃがいもだと思い込んでみたり…。私にとって「生きているだけで尊い / えらい」という言葉は、そういう、しんどい状況にいる自分の気持ちを、少しでも和らげるために唱えるおまじないのようなものだった気がする。

でも、この不思議な気持ちを辿っていった先にあった事実ーーー自分では忘れてしまっていた過去の自分、その欠片が今、誰かの生活を彩っているということーーーに思い至ったとき、「生きているだけで尊い」という言葉が、急に真実味を帯びて、目の前に立ち上がってきた。それは、とても確かなことなのだ。それはとても確かなことだから、直に触れもするし、もし望めばぎゅっとこちらに抱き寄せることもできる。今は、それくらいはっきりとした姿で、私の側に立っている。「生きているだけで尊い」はただのおまじないではない、事実を伝える言葉なのだと、大胆にも言い切ることができる。

それができるのは、友人Cが、私の忘れてしまっていた私が好きだったものを覚えていてくれたからだ。私たちはもう、こんなにも長い間友人なのですね。

 

石デビューを果たしたという友人Cに、鉱物だけでなく石ころも好きになってもらうために、石シール(石は恋人所蔵の石)を作って、ハガキに貼って送った。石はいろんな形や色があってきれいだよ〜。


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