ドライブ・マイ・カー2回目の感想(家福・音夫婦とユンス・ユナ夫婦の対比について)

2022/2/18

 

金曜日に「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。

2回観ると、初回では気がつかなかったところに気がつくね。映画とか本は何回も観たり読んだりするのが理想なんだろうな(YouTubeで又吉も言っていた)。

確かに初回は、家福とみさきが性愛で結ばれるんじゃないかとヒヤヒヤしながら観ていて、そっちに気がいってしまった部分がある。2回目は安心して観られたから、その分他のところに目をやる余裕が生まれたのかもしれない。

 

原作も「ワーニャ伯父さん」もまだ読んでいないし、映画に対する批評とか解説とか感想とか読むのもまだ解禁してないので見当違いのことを言っているかもしれませんが、まあそれはそれとしてしまいます。脚本が公開されていないのでセリフは正確性を欠いています。もちろんネタバレはあります。

 

「ドライブ・マイ・カー」2回目を観て初めて、家福・音夫婦とユンス・ユナ夫婦が対比されていることに気がついた(たぶん)。

対比されていると気がつくまでの流れとか根拠について、覚えている限りでセリフとかシーンを交えながら以下長々と書きます。

 

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韓国人夫婦(夫がユンスで、妻がユナ)の夕食に家福とみさきが招かれるシーン。

4人で食卓和やかにを囲みながら、ユンスが日本にやってきた理由を話す。

 

ユンス:(日本の)演劇祭に誘われました。妻を日本に連れてくるかどうかはとても悩みました。韓国であれば、妻の手話を理解する家族も友人もいる。でも、代わりに僕が妻の話を100倍聞こうと思いました。

 

このセリフを聞いた時にもしや…?と思ったのだが、家福の舞台のオーディションに参加した理由をユナが話すシーンを見て、確信に変わった。

ユナが手話で理由を語って、ユンスが以下のように訳す。

 

ユンス:もともとダンサーだったんですが、流産してしまって。それから体が踊りださなくなったんです。そんな時に夫が家福さんの舞台を教えてくれました。

 

このセリフから、ユナ・ユンス夫婦は流産を経験しているのだと分かる。

そして、家福・音夫婦にも、4歳の娘を肺炎で亡くしたという経験がある。

つまり、「子どもを亡くした経験がある」という点で両者は共通しているのだけれど、その経験が両夫婦の関係に与えた影響は全く異なっている。そしてそれが、両夫婦の間に流れる空気の違いにも繋がっている。

ユナ・ユンス夫婦の間には、温かな空気が流れている。

2人の間には隠すべき秘密(ユナに一目惚れしたことをユンスは「秘密」だと家福に言っているが、こんな可愛い「秘密」は秘密のうちに入らない)や謎はない。

お互いがお互いを理解し、信頼し合っているということが彼らの仕草やセリフからひしひしと伝わってくる。

ユナ・ユンス夫婦は、彼らの身に起こった流産という出来事を共に引き受けてここまで日々を積み重ねてきたのだろう……と私たちは想像することができる。

一方、家福・音夫婦の間には「謎」や「秘密」が黒々とした大河のように横たわってる。

娘を亡くしたことがきっかけで彼らの関係は変わってしまった(∵家福「娘を肺炎で亡くしたことをきっかけに僕らの穏やかな生活は失われてしまった」)。音が他の男性と関係を持つようになったのも、恐らく娘を亡くしてからだ(∵家福「娘を亡くして音は女優を辞めた」「自身が脚本を書いたドラマの俳優たちと関係を持っていた」)。

家福は音の「秘密」を認識しているにも関わらず、音を失うことを恐れてそれに正面から向き合おうとしない。家福のこのスタンスは画面で間接的に、家福のセリフで直接的に表されている。

例えば、高槻と音のセックスを家福が目撃してしまうシーンで、家福は高槻と音のセックスを"鏡越しに"見ている。つまり、目撃はしているものの直視はしていないのだ。

また、上十二滝村を家福とみさきが訪れるクライマックスのシーンには、「僕は(音の話に)耳を傾けていなかった」という家福のセリフがある。このセリフは「(ユナの話を)100倍聞こうと思いました」というユンスのセリフと対比関係にあると言えるだろう。

2組の夫婦の対比———この観点から映画を眺めてみると、セリフだけではなく画面作りにもそれが現れていることが分かる。

ユナ・ユンス夫婦の家には、2人の間に流れている空気の温かさを象徴するように、オレンジがかった温かな色の光が灯されている。

ユナ・ユンス夫婦の家を舞台とした4人の食事シーンから感じられるのは、穏やかさや、和やかさだ。2人のリラックスした雰囲気がひしひしと伝わってくる。不穏さや暗さは微塵も感じられない。

ユナ・ユンス夫婦の家が温かな色の光に包まれているのに対して、家福・音夫婦の家は暗い。部屋が明るく照らされる場面というのがほとんどない。映画の冒頭〜音がくも膜下出血で亡くなるまで、家福・音夫婦の家はかなりの頻度で映っていたと思うのだけれど、そのほとんどが夜明け前・夜・雨のシーンだ。

思いつくシーンを列挙してみる

  • 冒頭→夜明け前で薄暗い
  • 法要後のセックスシーン→雨の夕方で真っ暗
  • 音がカセットテープに声を吹き込んでいるシーン→たぶん夜で真っ暗
  • 音が倒れているのを家福が見つけるシーン→深夜で真っ暗
  • 高槻と音がセックスしてるシーン→昼間だけど電気つけてなくて薄暗い

昼間(朝?)かつ明るいシーンといえば、音が家福に「昨晩の話覚えてる?」と尋ねるシーンだけど、そこで家福はヤツメウナギの話を覚えていないと嘘をつく。画としては昼間の明るいシーンだけれども、家福の嘘がある故に結果として穏やかな・明るい印象にはなっていない(と思う)。画面の明るさよりも「家福の嘘」に注意がいくからだ。

家福・音夫婦の家が常に暗いのは、2人の間に触れられない何かがあるからだ。家福は「音の中にはどす黒い渦のようなものがある」と表現していたけれど、先述したように家福はそれを直視しようとはしない。音に直接問いただそうとはしない。音も自ら話そうとはしない。

家福夫婦の間には決して光の当たることのない「秘密」があって、その「秘密」が2人の関係に影を落としている。その関係が物理的な暗さとして画面上で表現されているのだ。

家福・音夫婦とユンス・ユナ夫婦を対比することで言えることは何なんだろうか……と考えてみたけれど、まだ明確な答えは得られていない。

強いて言うならば、ユナ・ユンス夫婦は家福・音夫婦のあり得た姿、実現しなかったもう一つの姿だと言えるのかもしれないが、何となくしっくりこない。

 

女性を霊感・神がかり・救済と結びつけている点は正直気に入らないけれど、この映画にはいろんな観点から解釈できる余地、つまりは深みがあるし、何よりも長回しシーンの岡田将生は何度だって観たい。映画館で見るべき画ですねあれは。とても素晴らしかった(昨年12月に「ガラスの動物園」の舞台を観てから岡田将生が前よりもずっと好きになったのです)。「ワーニャ伯父さん」と「女のいない男たち」を読んでからもう一回観よう。

 

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