セピア→バラ事件

セピア→バラ事件、あるいはおいしいごはん2

 

2021/7/13

さっきから数時間寝付けず、頭の中で文章がぐるぐるしていたのでいっそ吐き出してしまおうと思ってこれを書き出します。

 

まともな調理ができない日々が続いている。おそらく1ヶ月くらい、あるいはそれ以上、自宅では包丁を握っていない。まな板の上で包丁を使って何かを切るところを想像しても全くやる気にならない。面倒臭い。包丁を使って食材を切るということは、刃物で何かの肉や身を断つということであって、ただ細かくするというだけでなく、時には原型が分からなくなるくらいまでこの私の手で切り刻むこともあって、そう表現すると何かグロテスクで危険な行為であるかのように思えるのに、実際にはそれは全くの合法で、むしろ健康的な明るささえあって、そういう風に刃物が使えるシーンって料理だけなんじゃないかと思うので、包丁で何かを切るという体験は私にとってけっこうおもしろいものだったのだけれど、今はそんな風におもしろがる気持ちもなく、ただただ面倒臭い。なので、自宅で食事をするときは「手間がかからずそこそこ口に合って栄養価が高いもの」ばかりを食べている。この条件を満たすものがそもそも少ないというのと、数あるものからひとつを選ぶという行為が疲労の素になるという理由から、だいたい同じものを食べている。

同じものというのは、①玄米混ぜご飯②オートミール+ヨーグルト③お粥④トマトと卵の炒め物⑤ゆで卵⑥鶏むね肉⑦刺身のっけ雑炊で、この中で唯一「調理」という行為が発生するのはトマトと卵の炒め物なのだが、それもこれ以上ないくらい手を抜いて作っている。食べるのに使う皿の上で、食べるのに使うスプーンで卵を溶いて、トマトを手でちぎってフライパンに投げ入れて炒めるのだ。そうすれば、調理によって発生する洗い物はフライパンだけになる。こんなに雑に作っても、トマトと卵の炒め物はうまい。しかも、すぐにできる。炒めるという行為の面倒臭さよりもうまさと栄養に軍配が上がるので、これだけはキッチンに立って作れる。卵とトマトに感謝。日々作ったトマたま炒めです。


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そんな私においしいご飯を食べさせてくれる人がいる。恋人である。恋人は「何か食べたいものがあったら言ってくださいね、何でも作りますから」と言う。そして本当に何でも作ってくれる。だから、セピア色(玄米とオートミールが主食なので)で単調な食生活が、恋人宅に行くとバラ色でバリエーションに富んだものになる。セピア色の食生活からバラ色の食生活へ、一息にジャンプ。ものすごい高低差である。ジャンプするのに必要なのは、私たちの最寄り駅を結ぶ電車だから、現実世界の水平移動がイメージ上の垂直移動を産んでいるというのは少しおもしろい。

この間、セピア色の食生活をしばらく続けた後に、恋人宅でカレーを食べた。ナスチキンカレーとオクラきゅうりカレー大葉のせのあいがけ。

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一口食べた瞬間に(ご飯だ!!!!!!!!)と思った。目がかっと開いて、思わず「うまい!ご飯食べてるって感じ!!」と言ってしまった。ご飯食べてるんだからご飯食べてる感じも何もないし、お前が自宅で食べてるのだってご飯だろうという話なのだが、私が自宅で食べているものと、恋人が作ってくれたカレーの間には明確な違いがあった。恋人が作ってくれたカレーはなんか、何だろう、いろんな味がしたのだ。いろんな味や食感が口の中で飛び跳ねて、存在を主張していた。甘いも塩辛いも一定の幅でしか感じてこなかった舌の上に、いきなりスパイスカレーを載せたもんだから、寝てた味蕾を叩き起こしてしまったのかもしれない。起きてー!味蕾起きてー!!

私のは手間がかからずそこそこうまい「栄養摂取」で、恋人のは「おいしいごはん」なのだなあ…とつくづく思った。両者の間には決して越えられない壁がある。それほど高いようには見えないけど、実際はしっかり高くて絶対に越えられない壁。

恋人の「何でも作りますよ」は言葉通りの意味で、塩角煮も、天ぷらも、カツオの竜田揚げも、じゃがいもとたらこのパスタも、餃子も、ウィークエンドシトロンも、本当に何でも作ってくれる。


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どれも全部おいしいので、もりもり食べてしまい、恋人宅にいると自宅で減った体重が元に戻る。比喩でなく、そのままの意味で私は恋人に生かされている。いくら感謝してもしきれない。

 

 

追記:

これを書いていて、味や食感のバリエーションは「おいしいごはん」を構成する大事な要素のひとつだと実感した。この間読んだオモコロの記事(いつも家で作っているパスタを作る会 | オモコロ)で紹介されていたプロの料理人お二方ともが「人間は食感が変わらないと飽きる」と言っていて、(言われてみればそうか…?)ぐらいの気持ちで読んでいたけれど、今回のセピア→バラ事件で痛感した。変化に富む味や食感は「おいしいごはん」を作る大事な要素だ。

私の「栄養摂取」は味や食感が平坦である。起伏がない。食材が限定されているし、味付けは塩か化学調味料だ。その単純さは、2色だけではみ出さずきれいに塗ったぬり絵みたいだ。それに、どうにもならないときに食べるお粥パウチはもちろんいつも同じ味がする。味を平均化するのがそういった食品の使命であって、それはそれで安心できるのだが、それが続くと味蕾が眠る。

食感の変化は、食材や調理法のバリエーションに依拠する。また、人が作ると味や食感に「ブレ」や「ムラ」が生じる。それらが「おいしいごはん」を形作る重要な要素のひとつである、と身をもって理解したのだった。