「静寂」と書いてフィクションと読んでみる

2022/2/12

 

共有玄関を出て、マンション自身が作る濃い影から光溢れる外界へ足を踏み入れた瞬間に、世界の静寂に気がついた。

普段は神経を刺激し続けて私を消耗させるだけの世界だが、今日はいつもと様子が違う。

 

(し、静かだ……)

 

そう、静かなのだ。

冷たい電信柱、人工的な白さが目を射るマンションの壁、等間隔に設置された深緑色のドア、仄かな不吉さを感じさせるコンクリートのひび割れ、色あせた灰色のゴミ箱に寄り添って立つあぶれた空き缶たち……それら白昼の住宅街を構成する無数のパーツは、太陽の白い光を全身に受けたまま物言わずじっと息をひそめている。

もちろん私の耳が聞こえなくなったわけではない。ただ、「静寂の印象」が世界に満ち満ちているのだ。

そして今、私の視界には誰もいない。

(もしかして滅亡した?)

安直でアホな考えが閃いた瞬間、前方から自転車に乗った女性が登場し、私の視界を横切っていった。

深夜の散歩中とかだと長いあいだ誰ともすれ違わなくて、このおなじみの空想をしばらく楽しめることがあるのだけれど、週末昼間の住宅街ではやっぱり上手くいかないようだ。

 

(なんで静かなんだ……気のせいか?)

考えながら歩き出すと、すぐに公園の脇にさしかかった。

週末の公園には謎の大学生集団・小さな子どもたち・その親、の3者が共存していて、彼らをまとめると15〜20人くらいにはなりそうだった。

彼らのそれぞれがそれぞれの活動をしていて、その音が合わさってさざ波のように私に届いているのに、それでも私の世界は「静寂の印象」を保っていた。

(けっこう人がいるのにな……謎だ)

謎が深まったそのとき、数人の子どもたちが甲高いはしゃぎ声をあげた。大層元気な声だ。

わりあい近くでそれをきいていたにも関わらず、彼らの声は私の鼓膜をやさしく撫でていくだけで、突き刺さりはしなかった。

子どもたちのハイトーンボイスも何のその、私の世界は依然として揺らぐことのない静寂に包まれている。

その時はっきりと分かった。今日は私にとって世界が「静か」な日なのだ。

 

まるで世界の発する音のボリュームが全体的に下がっているようだった。

たしかに音は聴こえてはいるのに、いつもよりぼやけていて間伸びした感じ。周囲の音が少し遠くて、曖昧でクリアに聴こえないからこそ、こちらもぼんやりしていられる。

いつもとは違う静けさの中を抜け、駅付近まで来た。

視界には迷いのない足運びで私と同じ目的地を目指して進む人々。

電車に乗ってこれからどこかへ向かう人々。

必ずどこかに辿り着く人々。

目の前をひたと見据え迷いなく進む人たちのきびきびとした足音を聴きながら

(もしこれが映画だったらみんなで破滅に向かうシーンかもなあ)

などと、またすぐにくだらない空想を描いてしまう。

改札を通って中央線に乗ってのんびりスマホをいじっていたら車窓を流れる街の風景がだんだん色を失って輪郭もぼやけていって最後には世界が真っ白になる…。

私の人類滅亡はだいたい世界が真っ白になって終わる。痛いことは嫌いだし具体的にイメージするための経験や想像力が不足しているからだ。

無数の死の積み重ねが世界の滅亡だとして、死んだことのない私には想像の足がかりとなるものがない。ぽっかり空いたその隙間を天国の色である白で塗りつぶしてしまうのだろう。

くだらない空想は縦置き(真空ジェシカの漫才は全部おもしろいのですごい)、私は世界が静寂の印象に満ちている原因を解き明かそうと試みた。

原因は大きく二つに分けられる。

  1. 実際に世界がいつもより静か
  2. 頭の中がいつもより静か

原因はほぼほぼ後者であろう。前者を検討する必要はほとんどない。土曜日だから人々が普段よりゆっくり行動したり、のんびりお喋りしたりしているということはあるかもしれないが、先週の土曜日に出かけた時には今日のような「静けさ」は感じなかった。厳密に比較しているとは言えないけれど、兎にも角にも客観的事実として「世界が静かである」という可能性はかなり低いだろう。

お前は揺れているだけ」と昔どこかで円城塔は言っていたけれど(ちなみに円城塔は一冊も読んだことがありません…)、きっと、鼓膜というフィクション製造機が私の脳みその中に「静けさ」という幻想を生み出しているのだ、世界が変わったのではなく自身の感じ方がいつもとは違うのだ、と私はすぐに結論づけた。

この「静けさ」は幻想かもしれないけれど、私がこの世界を静かだと感じているのは"事実"だし、そんなことは滅多に起こらないことだから、今日はとにかくこの「静けさ」、世界に充満している「静寂の印象」を楽しむことにした。

電車に乗り込み座席に座ってトートバッグを抱え込み、周囲の音に注意を向けてみる。

乗り換え案内する車掌のアナウンス、けたたましく鳴り響く発車ベル、ドアの開閉音、走行中のモーター音、衣擦れの音、足音、乗客たちの密やかな話し声……。

全ての音が少し遠くて、輪郭が曖昧だ。まるで音の粒たちがトレーシングペーパーに包まれているような感じ。

中学生で初めてめがねをかけた時、あまりにも世界がはっきりと見えすぎてくらくらしてしまったことがあったけれど、今日はその逆だ。全てが曖昧で心地よい。

普段はぎゅっと縮こまっている脳が弛緩して、脳の実と実の間に隙間ができているような気がする。だから情報の伝達がいつもより遅いのだろうか。だからこんなにも世界が間延びしているように感じるのだろうか。

いつまでも終わらない不思議な静けさにじっと耳を傾ける私を電車はひたすら運んでいった。