生きるためのずぼら

 

 2021/6/15

 

ここ最近、エンターテインメントをほとんど何も摂取できない。オモコロもドラマもSNSも好きな芸人のYouTubeチャンネルもラジオも、あの「ナポリの男たち」の配信さえも見続けることができなくて、途中でやめてしまう。音楽も同じだ。宇多田ヒカルスピッツも聴けない。数年前、人が本当に嫌になった時期があって、その時もクラシックは聴けたから、今回もクラシックを聴こうとしたけれど、それも無理だった。SNSは疲れているのについつい見てしまうから、今は頑張って見ないようにしている。

それらエンタメになぜ長時間触れられないかというと、それらには、視聴者/リスナーの感情を動かそうとする、製作者の意志やエネルギーが含まれているからだ、と思う。当たり前だ。それが一切ない制作物なんて存在しない。エンタメの受け取り手だってみんな、自分を楽しませる何かや、自分の心を動かしてくれる何かを求めているのだし。現に少し前の私はそうだった。気になったドラマやアニメを一気見したり、オモコロで大笑いしたり、ナポリやすぎるの配信を垂れ流して生活していた。でも、今の私はあまりにも疲れすぎていて、製作者の「楽しませるぞ!」「伝えるぞ!」というエネルギーに触れられないのだ。そんなこんなで、YouTubeで雨の降る音ばかりを聴いている。自然の音には意志とか感情がないから疲れない。リラックスできる。ここ数日は家にいる時も、移動中も、就寝時も、ほとんどの時間を雨音を聴きながら過ごしている。その合間に疲れなさそうなもの、もしくは、好きだから観ておきたいもの(例えば、大豆田とわ子と3人の元夫とかナポリの男たちのマイクラ配信とか)をちょこちょこと観ている。

 

そんな状態なので、恋人といる時はともかく、ひとりになると食べる気力が失せる。でも食べないと食べないことによって余計に食べられなくなりそうだから頑張って食べている。今、私にとって、ひとりで食べるご飯は楽しみではなく、淡々とこなせる習慣でもなく、果たすべき義務になりつつある。

「頑張って食べる」ということを自分がする日がくるとは思わなかった。すごく疲れた日の終わりにスーパーに行って、何を食べたらよいか分からず「あれも違う」「これも違う」と、スーパーをただただ徘徊する「スーパーゾンビ」になることはこれまでにも多々あったけれど、そんな時でも「食べる気持ち」は失っていなかったし、食べることを義務だと感じたこともなかった(その時食欲がなくても、後で必ず何か食べたくなるから、食べたい時に食べたいものを食べりゃいいじゃん、と思えた)。料理も製菓も基本的には好きな方だし、今の物件に決めたのもガスコンロと広いキッチンがあるからだ。自炊はいつも私の身近にあった。

しかし今は、何かを作る気にならない。キッチンでガスコンロに火をつけて何かを茹でたり炒めたりするのがめんどくさい。食べなければ…という思いはあるものの、何も食べたいものがない。作る手間がほとんどなく、かつ、私が食べたいと思えるものなんて世界にはほとんどないのだ。近所には大手外食チェーンがいっぱいだし、お弁当屋さんも近くにあるけど、固形物で、しかも味の濃いものを口に入れる気にはならない。

そうなると、導き出される食品はたった一つだ。そう、お粥である。レトルトパウチのお粥なら食べられるし、食べたいとも思える。調理も簡単だ。

スーパーに行ってお粥を探し、棚の間をさまよい歩いた。私は普段、風邪も病気もほとんどしない健康体なので、お粥がどこにあるかなんて把握していなかった。とりあえず頭上の案内プレートで「レトルト」の文字を探してそこに向かった。果たしてそこにお粥はあった。でも、そこにあるお粥は私の求めているものとは少し違った。私が欲しいのは「フリーズドライ!かに雑炊」とか「ご飯があれば1分でできる!ちょっとぞうすい」とか「干貝入り粥」とかではない。もっと普通の、梅とか卵とかしゃけとかが入っていて、ご飯さえ用意する必要がない、完成済みのシンプルなお粥なのだ。そんな最も基本的なお粥がないわけがないと思って、他の棚も当たってみようと後ろを振り返ったら、「介護食」のコーナーがあった。そこには、飲み物にとろみをつけるための粉とか、レトルトパウチの「やわらかご飯」とか「おじや 親子丼風」とかが置いてあった。それを見て思い出されることがあった。私は昔、高齢者施設で働いていた。そこには、ご飯を食べない人というのはまあまあいて、でも「ご飯を食べられなくなったら終わり」だから、そういう人たちにも何とかご飯を食べてもらっていた。お風呂に入りたくない気持ちは当時も理解していたが、「ご飯を食べたくない気持ち」は今いちピンと来ていなかった。でも、なるほど、彼らはこういう気持ちだったのか、とその時理解した。スーパーに並ぶ色とりどりのパッケージを見てもどれにも惹かれない。空腹なのに食べる気にならない。食べるのには想像以上に気力がいる。生きる意志がなければ、食べる意志も生まれない。「食べられなくなったら終わり」なのは本当なのだ。食べることと命を続けていくことが一本の太い線で繋がっていることを、こんなにはっきりと認識したことはなかった。

結局、お米の棚に私の求めるお粥があったので、数パック買って帰った。

以下、努めてずぼらして食べたレポ?です。何もかもがめんどくさい時にはこういう方法もどうでしょう。ガスコンロでお湯沸かさなくていいし、皿洗いもしなくていいです。

 

おかゆをケトルに突っ込んでそのままお湯を沸かします。(このケトルはいらないからって元ご近所さんの田中さんがくれました。田中さんありがとう。おかげで飯食えてます。)

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②沸いてしばらくして、あったまったかな〜と思ったらタッパーに袋ごと移します。

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③袋をタッパーの高さに合わせてハサミで切ります。
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④袋のまま食べます。

 

頑張ってずぼらして食べたお粥は、温かくてやさしくておいしかった。お粥を食べたら少し元気が出て、冷凍してたラタトゥイユをレンチンで解凍できたから、ラタトゥイユも食べた。

生きるために工夫している私えらいな。生きるためのずぼらはどんどんしていこうね。