ドライブ・マイ・カー2回目の感想(家福・音夫婦とユンス・ユナ夫婦の対比について)

2022/2/18

 

金曜日に「ドライブ・マイ・カー」を観てきました。

2回観ると、初回では気がつかなかったところに気がつくね。映画とか本は何回も観たり読んだりするのが理想なんだろうな(YouTubeで又吉も言っていた)。

確かに初回は、家福とみさきが性愛で結ばれるんじゃないかとヒヤヒヤしながら観ていて、そっちに気がいってしまった部分がある。2回目は安心して観られたから、その分他のところに目をやる余裕が生まれたのかもしれない。

 

原作も「ワーニャ伯父さん」もまだ読んでいないし、映画に対する批評とか解説とか感想とか読むのもまだ解禁してないので見当違いのことを言っているかもしれませんが、まあそれはそれとしてしまいます。脚本が公開されていないのでセリフは正確性を欠いています。もちろんネタバレはあります。

 

「ドライブ・マイ・カー」2回目を観て初めて、家福・音夫婦とユンス・ユナ夫婦が対比されていることに気がついた(たぶん)。

対比されていると気がつくまでの流れとか根拠について、覚えている限りでセリフとかシーンを交えながら以下長々と書きます。

 

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韓国人夫婦(夫がユンスで、妻がユナ)の夕食に家福とみさきが招かれるシーン。

4人で食卓和やかにを囲みながら、ユンスが日本にやってきた理由を話す。

 

ユンス:(日本の)演劇祭に誘われました。妻を日本に連れてくるかどうかはとても悩みました。韓国であれば、妻の手話を理解する家族も友人もいる。でも、代わりに僕が妻の話を100倍聞こうと思いました。

 

このセリフを聞いた時にもしや…?と思ったのだが、家福の舞台のオーディションに参加した理由をユナが話すシーンを見て、確信に変わった。

ユナが手話で理由を語って、ユンスが以下のように訳す。

 

ユンス:もともとダンサーだったんですが、流産してしまって。それから体が踊りださなくなったんです。そんな時に夫が家福さんの舞台を教えてくれました。

 

このセリフから、ユナ・ユンス夫婦は流産を経験しているのだと分かる。

そして、家福・音夫婦にも、4歳の娘を肺炎で亡くしたという経験がある。

つまり、「子どもを亡くした経験がある」という点で両者は共通しているのだけれど、その経験が両夫婦の関係に与えた影響は全く異なっている。そしてそれが、両夫婦の間に流れる空気の違いにも繋がっている。

ユナ・ユンス夫婦の間には、温かな空気が流れている。

2人の間には隠すべき秘密(ユナに一目惚れしたことをユンスは「秘密」だと家福に言っているが、こんな可愛い「秘密」は秘密のうちに入らない)や謎はない。

お互いがお互いを理解し、信頼し合っているということが彼らの仕草やセリフからひしひしと伝わってくる。

ユナ・ユンス夫婦は、彼らの身に起こった流産という出来事を共に引き受けてここまで日々を積み重ねてきたのだろう……と私たちは想像することができる。

一方、家福・音夫婦の間には「謎」や「秘密」が黒々とした大河のように横たわってる。

娘を亡くしたことがきっかけで彼らの関係は変わってしまった(∵家福「娘を肺炎で亡くしたことをきっかけに僕らの穏やかな生活は失われてしまった」)。音が他の男性と関係を持つようになったのも、恐らく娘を亡くしてからだ(∵家福「娘を亡くして音は女優を辞めた」「自身が脚本を書いたドラマの俳優たちと関係を持っていた」)。

家福は音の「秘密」を認識しているにも関わらず、音を失うことを恐れてそれに正面から向き合おうとしない。家福のこのスタンスは画面で間接的に、家福のセリフで直接的に表されている。

例えば、高槻と音のセックスを家福が目撃してしまうシーンで、家福は高槻と音のセックスを"鏡越しに"見ている。つまり、目撃はしているものの直視はしていないのだ。

また、上十二滝村を家福とみさきが訪れるクライマックスのシーンには、「僕は(音の話に)耳を傾けていなかった」という家福のセリフがある。このセリフは「(ユナの話を)100倍聞こうと思いました」というユンスのセリフと対比関係にあると言えるだろう。

2組の夫婦の対比———この観点から映画を眺めてみると、セリフだけではなく画面作りにもそれが現れていることが分かる。

ユナ・ユンス夫婦の家には、2人の間に流れている空気の温かさを象徴するように、オレンジがかった温かな色の光が灯されている。

ユナ・ユンス夫婦の家を舞台とした4人の食事シーンから感じられるのは、穏やかさや、和やかさだ。2人のリラックスした雰囲気がひしひしと伝わってくる。不穏さや暗さは微塵も感じられない。

ユナ・ユンス夫婦の家が温かな色の光に包まれているのに対して、家福・音夫婦の家は暗い。部屋が明るく照らされる場面というのがほとんどない。映画の冒頭〜音がくも膜下出血で亡くなるまで、家福・音夫婦の家はかなりの頻度で映っていたと思うのだけれど、そのほとんどが夜明け前・夜・雨のシーンだ。

思いつくシーンを列挙してみる

  • 冒頭→夜明け前で薄暗い
  • 法要後のセックスシーン→雨の夕方で真っ暗
  • 音がカセットテープに声を吹き込んでいるシーン→たぶん夜で真っ暗
  • 音が倒れているのを家福が見つけるシーン→深夜で真っ暗
  • 高槻と音がセックスしてるシーン→昼間だけど電気つけてなくて薄暗い

昼間(朝?)かつ明るいシーンといえば、音が家福に「昨晩の話覚えてる?」と尋ねるシーンだけど、そこで家福はヤツメウナギの話を覚えていないと嘘をつく。画としては昼間の明るいシーンだけれども、家福の嘘がある故に結果として穏やかな・明るい印象にはなっていない(と思う)。画面の明るさよりも「家福の嘘」に注意がいくからだ。

家福・音夫婦の家が常に暗いのは、2人の間に触れられない何かがあるからだ。家福は「音の中にはどす黒い渦のようなものがある」と表現していたけれど、先述したように家福はそれを直視しようとはしない。音に直接問いただそうとはしない。音も自ら話そうとはしない。

家福夫婦の間には決して光の当たることのない「秘密」があって、その「秘密」が2人の関係に影を落としている。その関係が物理的な暗さとして画面上で表現されているのだ。

家福・音夫婦とユンス・ユナ夫婦を対比することで言えることは何なんだろうか……と考えてみたけれど、まだ明確な答えは得られていない。

強いて言うならば、ユナ・ユンス夫婦は家福・音夫婦のあり得た姿、実現しなかったもう一つの姿だと言えるのかもしれないが、何となくしっくりこない。

 

女性を霊感・神がかり・救済と結びつけている点は正直気に入らないけれど、この映画にはいろんな観点から解釈できる余地、つまりは深みがあるし、何よりも長回しシーンの岡田将生は何度だって観たい。映画館で見るべき画ですねあれは。とても素晴らしかった(昨年12月に「ガラスの動物園」の舞台を観てから岡田将生が前よりもずっと好きになったのです)。「ワーニャ伯父さん」と「女のいない男たち」を読んでからもう一回観よう。

 

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「静寂」と書いてフィクションと読んでみる

2022/2/12

 

共有玄関を出て、マンション自身が作る濃い影から光溢れる外界へ足を踏み入れた瞬間に、世界の静寂に気がついた。

普段は神経を刺激し続けて私を消耗させるだけの世界だが、今日はいつもと様子が違う。

 

(し、静かだ……)

 

そう、静かなのだ。

冷たい電信柱、人工的な白さが目を射るマンションの壁、等間隔に設置された深緑色のドア、仄かな不吉さを感じさせるコンクリートのひび割れ、色あせた灰色のゴミ箱に寄り添って立つあぶれた空き缶たち……それら白昼の住宅街を構成する無数のパーツは、太陽の白い光を全身に受けたまま物言わずじっと息をひそめている。

もちろん私の耳が聞こえなくなったわけではない。ただ、「静寂の印象」が世界に満ち満ちているのだ。

そして今、私の視界には誰もいない。

(もしかして滅亡した?)

安直でアホな考えが閃いた瞬間、前方から自転車に乗った女性が登場し、私の視界を横切っていった。

深夜の散歩中とかだと長いあいだ誰ともすれ違わなくて、このおなじみの空想をしばらく楽しめることがあるのだけれど、週末昼間の住宅街ではやっぱり上手くいかないようだ。

 

(なんで静かなんだ……気のせいか?)

考えながら歩き出すと、すぐに公園の脇にさしかかった。

週末の公園には謎の大学生集団・小さな子どもたち・その親、の3者が共存していて、彼らをまとめると15〜20人くらいにはなりそうだった。

彼らのそれぞれがそれぞれの活動をしていて、その音が合わさってさざ波のように私に届いているのに、それでも私の世界は「静寂の印象」を保っていた。

(けっこう人がいるのにな……謎だ)

謎が深まったそのとき、数人の子どもたちが甲高いはしゃぎ声をあげた。大層元気な声だ。

わりあい近くでそれをきいていたにも関わらず、彼らの声は私の鼓膜をやさしく撫でていくだけで、突き刺さりはしなかった。

子どもたちのハイトーンボイスも何のその、私の世界は依然として揺らぐことのない静寂に包まれている。

その時はっきりと分かった。今日は私にとって世界が「静か」な日なのだ。

 

まるで世界の発する音のボリュームが全体的に下がっているようだった。

たしかに音は聴こえてはいるのに、いつもよりぼやけていて間伸びした感じ。周囲の音が少し遠くて、曖昧でクリアに聴こえないからこそ、こちらもぼんやりしていられる。

いつもとは違う静けさの中を抜け、駅付近まで来た。

視界には迷いのない足運びで私と同じ目的地を目指して進む人々。

電車に乗ってこれからどこかへ向かう人々。

必ずどこかに辿り着く人々。

目の前をひたと見据え迷いなく進む人たちのきびきびとした足音を聴きながら

(もしこれが映画だったらみんなで破滅に向かうシーンかもなあ)

などと、またすぐにくだらない空想を描いてしまう。

改札を通って中央線に乗ってのんびりスマホをいじっていたら車窓を流れる街の風景がだんだん色を失って輪郭もぼやけていって最後には世界が真っ白になる…。

私の人類滅亡はだいたい世界が真っ白になって終わる。痛いことは嫌いだし具体的にイメージするための経験や想像力が不足しているからだ。

無数の死の積み重ねが世界の滅亡だとして、死んだことのない私には想像の足がかりとなるものがない。ぽっかり空いたその隙間を天国の色である白で塗りつぶしてしまうのだろう。

くだらない空想は縦置き(真空ジェシカの漫才は全部おもしろいのですごい)、私は世界が静寂の印象に満ちている原因を解き明かそうと試みた。

原因は大きく二つに分けられる。

  1. 実際に世界がいつもより静か
  2. 頭の中がいつもより静か

原因はほぼほぼ後者であろう。前者を検討する必要はほとんどない。土曜日だから人々が普段よりゆっくり行動したり、のんびりお喋りしたりしているということはあるかもしれないが、先週の土曜日に出かけた時には今日のような「静けさ」は感じなかった。厳密に比較しているとは言えないけれど、兎にも角にも客観的事実として「世界が静かである」という可能性はかなり低いだろう。

お前は揺れているだけ」と昔どこかで円城塔は言っていたけれど(ちなみに円城塔は一冊も読んだことがありません…)、きっと、鼓膜というフィクション製造機が私の脳みその中に「静けさ」という幻想を生み出しているのだ、世界が変わったのではなく自身の感じ方がいつもとは違うのだ、と私はすぐに結論づけた。

この「静けさ」は幻想かもしれないけれど、私がこの世界を静かだと感じているのは"事実"だし、そんなことは滅多に起こらないことだから、今日はとにかくこの「静けさ」、世界に充満している「静寂の印象」を楽しむことにした。

電車に乗り込み座席に座ってトートバッグを抱え込み、周囲の音に注意を向けてみる。

乗り換え案内する車掌のアナウンス、けたたましく鳴り響く発車ベル、ドアの開閉音、走行中のモーター音、衣擦れの音、足音、乗客たちの密やかな話し声……。

全ての音が少し遠くて、輪郭が曖昧だ。まるで音の粒たちがトレーシングペーパーに包まれているような感じ。

中学生で初めてめがねをかけた時、あまりにも世界がはっきりと見えすぎてくらくらしてしまったことがあったけれど、今日はその逆だ。全てが曖昧で心地よい。

普段はぎゅっと縮こまっている脳が弛緩して、脳の実と実の間に隙間ができているような気がする。だから情報の伝達がいつもより遅いのだろうか。だからこんなにも世界が間延びしているように感じるのだろうか。

いつまでも終わらない不思議な静けさにじっと耳を傾ける私を電車はひたすら運んでいった。

顕現

この間、「おまじないだった言葉が現実になった」ということがあって、うれしかったので書きます。

 

9月のある日、友人Cから以下のようなLINEをもらった。

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(手のひらに乗ったアメジストの写真)

「ついに石デビューしたで よくあるアメジストやけど!」

「生きてるだけで尊いよ、まじで。最近家にいること長くてさ、昔、午睡に教えてもらった恩田陸の本のシリーズの新作読んだりとか、映画とか、モネの絵の良さ感じられることもあって、午睡って昔からセンス半端なかったんやなって思ったし、いろいろ教えてもらえて感謝しかない!」

「だから石も始めてみた(LINEの太ってる人の絵文字)」

「まずは鉱物からにするわ〜笑」

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友人Cは中学時代からの親友だ。彼女から6月末に連絡をもらっていたものの、その頃は、私が最も余裕のない時期だったのでまともな連絡ができず、「また連絡します!」と彼女に言ってから、ぐずぐずしている間に2ヶ月強が経ってしまっていた。

そんな中、Cから先日「おい、もう9月やでおい(LINEのおじいさんの絵文字)」「調子いかが?」とメッセージが届いた。

彼女のこの挨拶は(連絡した方がいいんやろうけど、まだ万全ではないし…でも、だいぶ時間経ってるしなあ…)と、ためらいと、申し訳なさと、後ろめたさとで湿って重くなっていた私の気持ちを一掃してくれた。連絡できなかったことを詫びる私の返信に続けて、冒頭に引用したメッセージが送られてきた。

そのメッセージを読んだとき、何とも言えない不思議な気持ちを感じた。しかし同時に、それをかき消すほどの大音量で、「びっくりするほどいいこと言ってくれるやん!!!!朝からめっちゃうれしいわ!!!!」という声が脳内に響き渡っていた。なので、そのときはその気持ちをそのまま文字にして返したのだけれど、もらった言葉がとってもうれしかったので、彼女にハガキを書くことにした。そしてせっかくだから、彼女のメッセージを読んだときに感じた「不思議な気持ち」の理由に、少し目を凝らしてみることにした。

 

彼女のメッセージを読んだとき、不思議な気持ちになった。それは、私が彼女にそれらを「教えた」記憶が全くなかったからだ。確かに私は中学生の頃、恩田陸が大好きで「麦の海に沈む果実」とか「黒と茶の幻想」とか、著者の本を夢中になって読み漁っていたし、オランジュリー美術館でモネの睡蓮を観たことは、貴重な経験として私の中に深く残っているけれど、それらを彼女に教えた記憶は全くないのだ。特に、恩田陸に関しては、昔自分が夢中だったことすら忘れていて、Cから言われて(そういえば好きだったなあ〜、懐かしい)と思い出したほどなのだ。

そんな、私自身すら忘れてしまっている過去の自分が、今のCの生活に影響を与えているというのは何だか不思議な気持ちがした。確かにそれは私だけれど、10年以上の「時間」を隔てた私で、今の私はその頃の私がどんな形だったのか思い出せないほどに、その頃とは違う形になっている。でも、その頃の私を形作っていたもの、つまり、好きだったものの一部を覚えていてくれる人がいる。それは「過去(の私)」という、記憶の闇に飲まれ、消え去ったように見えたものが、それでも確かに"在った"という証明だ。確かに、私は存在したのだ。私自身が忘れているにも関わらず。時間で編まれた手綱を現在から順に手繰り寄せていけば、その先には確かに、恩田陸を愛読し、モネの「睡蓮」に感動した私がいるのだ。

そして、その過去の私を構成していたもの、その一部がCによって切り取られ記憶されて、今の彼女の生活を彩るピースになっているということ、その事実が彼女から今の私にもたらされ、私を感動させたということ、その一連が「生きているだけで尊い」という、この言葉を証明しているような気がする。

 

「生きているだけで尊い

丸ままこの通りではないけれど、私はこの言葉に類する言葉を言ったことも、言われたことも、目にしたこともあって、それを私が他者に伝えるとき、例えば友人に言うときには、心の底から「私は、あなたがいてくれるだけでうれしいよ」という気持ちを込めて伝える。けれど、自分で自分にこの言葉を言うときはいつも、おまじないに近いような気持ちで唱えている…ような気がする。緊張したときに手のひらに「人」と書いて飲んだり、観客を全員じゃがいもだと思い込んでみたり…。私にとって「生きているだけで尊い / えらい」という言葉は、そういう、しんどい状況にいる自分の気持ちを、少しでも和らげるために唱えるおまじないのようなものだった気がする。

でも、この不思議な気持ちを辿っていった先にあった事実ーーー自分では忘れてしまっていた過去の自分、その欠片が今、誰かの生活を彩っているということーーーに思い至ったとき、「生きているだけで尊い」という言葉が、急に真実味を帯びて、目の前に立ち上がってきた。それは、とても確かなことなのだ。それはとても確かなことだから、直に触れもするし、もし望めばぎゅっとこちらに抱き寄せることもできる。今は、それくらいはっきりとした姿で、私の側に立っている。「生きているだけで尊い」はただのおまじないではない、事実を伝える言葉なのだと、大胆にも言い切ることができる。

それができるのは、友人Cが、私の忘れてしまっていた私が好きだったものを覚えていてくれたからだ。私たちはもう、こんなにも長い間友人なのですね。

 

石デビューを果たしたという友人Cに、鉱物だけでなく石ころも好きになってもらうために、石シール(石は恋人所蔵の石)を作って、ハガキに貼って送った。石はいろんな形や色があってきれいだよ〜。


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セピア→バラ事件

セピア→バラ事件、あるいはおいしいごはん2

 

2021/7/13

さっきから数時間寝付けず、頭の中で文章がぐるぐるしていたのでいっそ吐き出してしまおうと思ってこれを書き出します。

 

まともな調理ができない日々が続いている。おそらく1ヶ月くらい、あるいはそれ以上、自宅では包丁を握っていない。まな板の上で包丁を使って何かを切るところを想像しても全くやる気にならない。面倒臭い。包丁を使って食材を切るということは、刃物で何かの肉や身を断つということであって、ただ細かくするというだけでなく、時には原型が分からなくなるくらいまでこの私の手で切り刻むこともあって、そう表現すると何かグロテスクで危険な行為であるかのように思えるのに、実際にはそれは全くの合法で、むしろ健康的な明るささえあって、そういう風に刃物が使えるシーンって料理だけなんじゃないかと思うので、包丁で何かを切るという体験は私にとってけっこうおもしろいものだったのだけれど、今はそんな風におもしろがる気持ちもなく、ただただ面倒臭い。なので、自宅で食事をするときは「手間がかからずそこそこ口に合って栄養価が高いもの」ばかりを食べている。この条件を満たすものがそもそも少ないというのと、数あるものからひとつを選ぶという行為が疲労の素になるという理由から、だいたい同じものを食べている。

同じものというのは、①玄米混ぜご飯②オートミール+ヨーグルト③お粥④トマトと卵の炒め物⑤ゆで卵⑥鶏むね肉⑦刺身のっけ雑炊で、この中で唯一「調理」という行為が発生するのはトマトと卵の炒め物なのだが、それもこれ以上ないくらい手を抜いて作っている。食べるのに使う皿の上で、食べるのに使うスプーンで卵を溶いて、トマトを手でちぎってフライパンに投げ入れて炒めるのだ。そうすれば、調理によって発生する洗い物はフライパンだけになる。こんなに雑に作っても、トマトと卵の炒め物はうまい。しかも、すぐにできる。炒めるという行為の面倒臭さよりもうまさと栄養に軍配が上がるので、これだけはキッチンに立って作れる。卵とトマトに感謝。日々作ったトマたま炒めです。


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そんな私においしいご飯を食べさせてくれる人がいる。恋人である。恋人は「何か食べたいものがあったら言ってくださいね、何でも作りますから」と言う。そして本当に何でも作ってくれる。だから、セピア色(玄米とオートミールが主食なので)で単調な食生活が、恋人宅に行くとバラ色でバリエーションに富んだものになる。セピア色の食生活からバラ色の食生活へ、一息にジャンプ。ものすごい高低差である。ジャンプするのに必要なのは、私たちの最寄り駅を結ぶ電車だから、現実世界の水平移動がイメージ上の垂直移動を産んでいるというのは少しおもしろい。

この間、セピア色の食生活をしばらく続けた後に、恋人宅でカレーを食べた。ナスチキンカレーとオクラきゅうりカレー大葉のせのあいがけ。

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一口食べた瞬間に(ご飯だ!!!!!!!!)と思った。目がかっと開いて、思わず「うまい!ご飯食べてるって感じ!!」と言ってしまった。ご飯食べてるんだからご飯食べてる感じも何もないし、お前が自宅で食べてるのだってご飯だろうという話なのだが、私が自宅で食べているものと、恋人が作ってくれたカレーの間には明確な違いがあった。恋人が作ってくれたカレーはなんか、何だろう、いろんな味がしたのだ。いろんな味や食感が口の中で飛び跳ねて、存在を主張していた。甘いも塩辛いも一定の幅でしか感じてこなかった舌の上に、いきなりスパイスカレーを載せたもんだから、寝てた味蕾を叩き起こしてしまったのかもしれない。起きてー!味蕾起きてー!!

私のは手間がかからずそこそこうまい「栄養摂取」で、恋人のは「おいしいごはん」なのだなあ…とつくづく思った。両者の間には決して越えられない壁がある。それほど高いようには見えないけど、実際はしっかり高くて絶対に越えられない壁。

恋人の「何でも作りますよ」は言葉通りの意味で、塩角煮も、天ぷらも、カツオの竜田揚げも、じゃがいもとたらこのパスタも、餃子も、ウィークエンドシトロンも、本当に何でも作ってくれる。


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どれも全部おいしいので、もりもり食べてしまい、恋人宅にいると自宅で減った体重が元に戻る。比喩でなく、そのままの意味で私は恋人に生かされている。いくら感謝してもしきれない。

 

 

追記:

これを書いていて、味や食感のバリエーションは「おいしいごはん」を構成する大事な要素のひとつだと実感した。この間読んだオモコロの記事(いつも家で作っているパスタを作る会 | オモコロ)で紹介されていたプロの料理人お二方ともが「人間は食感が変わらないと飽きる」と言っていて、(言われてみればそうか…?)ぐらいの気持ちで読んでいたけれど、今回のセピア→バラ事件で痛感した。変化に富む味や食感は「おいしいごはん」を作る大事な要素だ。

私の「栄養摂取」は味や食感が平坦である。起伏がない。食材が限定されているし、味付けは塩か化学調味料だ。その単純さは、2色だけではみ出さずきれいに塗ったぬり絵みたいだ。それに、どうにもならないときに食べるお粥パウチはもちろんいつも同じ味がする。味を平均化するのがそういった食品の使命であって、それはそれで安心できるのだが、それが続くと味蕾が眠る。

食感の変化は、食材や調理法のバリエーションに依拠する。また、人が作ると味や食感に「ブレ」や「ムラ」が生じる。それらが「おいしいごはん」を形作る重要な要素のひとつである、と身をもって理解したのだった。

 

ケトルで鶏むね肉に火を通す with 石

ちょっとみんな聞いてー!!!!!!(カンカンカンカン)という気持ちでこの記事を書き出している。内容はタイトルの通りだ。私は数十分前にケトルで鶏むね肉に火を通すことに成功した。この感動を他の誰かに伝えたい、この話を誰かに聞いて欲しいという気持ちが高まりまくって、食べ終わってすぐそのままの勢いでこれを書いている。

さっそく具体的な方法を記述したい気持ちは山々なのだが、今回の成功は過去におかした一つの失敗の上に成り立っている。よって、その失敗について先に軽く触れておくことにする(読み飛ばしても全く問題ないです)。

 

2021/6/19

私はケトルでゆで卵(前記事参照)の成功体験をもとに、ケトル調理を他の食べ物にも適用しようとしていた。真っ先に候補に上がったのが、鶏むね肉である。鶏むね肉はゆで卵同様、以前から私の食生活を支えてくれていたよきパートナーであった。その鶏むね肉をケトルで調理できるようになれば、私のケトル食の可能性はさらに広がるだろう。しかし、スーパーに行き、鶏むね肉のパックを見たとき、私はふと不安になった。

(こんなに大きな肉の塊にケトルで火を通せるだろうか…?)

決して、目の前の鶏むね肉が通常より大きかったという訳ではない。ただ、私はこれから、ケトルで火を通すというイレギュラーな行為をするのだ。

(300gの鶏むね肉でも、ケトルには荷が重いんじゃないだろうか?きちんと火が通るのか…?)

もし完全に鶏むね肉に火が通らず半生になった場合、結局鍋で茹でることになる。それはめんどくさいからなるべく避けたい。そう考えた私は、結局4本入りのささみに手を伸ばした。

 

数日前に購入しておいたアイラップ(耐熱約120度のポリ袋。ケトルで食品を茹でるために、耐熱のポリ袋があると超便利なのではと思って調べたら出会った最高の商品)に、ささみを投入。下味をつけて放置し、袋ごと沸いた湯の中に入れて約10分待った。

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火は通っていたが、ジューシーさは全くなく、食感がゴムみたいになってしまった。味付けにも失敗してしまったようで、かなり塩辛い。辛かったけれど、お茶をがぶ飲みしながら全部食べた。

 

2021/6/23

そして本日である。私は電車に揺られながら、前回失敗したのは「急速に熱を入れ過ぎたからだ」と判断した。「鶏むね肉やささみをしっとり仕上げるには、じっくりと火を通すことが重要である」。私がSNSやWebで見てきたレシピには全て、そう書いてあった。私はたぶん、半生になることを恐れ過ぎていたのだろう。ケトルで沸かしたお湯の温度や勢いは、細いささみには過剰だったのだ。より大きな塊である鶏むね肉なら、同じ条件であってもゆっくり火が入るはずだ。そう考えて、当初はあえて避けた鶏むね肉を購入して帰宅した。調理の際、以下のレシピを参考にしました。ありがとうございます。

 

①鶏むね肉は300gのものにした。フォークで穴を開けて、裏表に軽く塩を振る。


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②できるだけ空気を抜いてアイラップに入れる。

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③お湯(何となく約700mlにした)が沸いたらケトルに袋ごと鶏むね肉を入れる。

のだが、ここで小さなハプニングが起こった。袋に入れた鶏むね肉が水面に浮いてきてしまい、肉全体がお湯にきちんと浸らないのだ。

困った…何か重しが必要だ。重しになるようなものはないか…と部屋を見回したところ、たくさんあった。

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そう、私は石が好きなのだ。部屋には石がたくさんある。静かに佇むそれらの中で、いちばん重しに向いていそうなものを選んだ。これだ!

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この石は普段、棚の上でブックストッパー?ページオープナー?として活躍している。いちばん後ろの丸いやつです。ついでに私の拾ったいい石たちも見てください。

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④石(もしくは任意の重し)をアイラップに包んで、ケトルに入れる。

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自分で作り出した状況にも関わらず、アイラップに包まれた石とか初めて見たからテンション上がった。石ってこんな姿にもなるんだ…。石は硬くて丈夫だから、用途によって柔軟に装いを変えられるのだ。石ってやっぱりすごい。好き。

 

⑤お箸とかで、鶏むね肉とのバランスを整えて、鶏むね肉全体がお湯に浸るようにする。口でゆっくり30秒数えて、スイッチをオフにした。ここから約30分間ふたをして放置(石を入れる時に多少もたついたので、30分より数分長く待った)。

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約30分後の姿。

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できてそう!!しかし、油断は禁物。キッチンばさみで分厚い部分を切断して中を確認する。

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できてそう!!!!しかもジューシーそう!!!!これでかぶりついてもよかったが、完全に火が通ってるかちょっぴり不安だったので、袋ごとケトルに戻して数分追加で加熱。のち、完成!

 

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ポン酢と梅肉をつけて食べました。インターネットで知識を共有してくれる方、私にケトルをくれた田中さん、そして石に感謝の念を抱きつつ、秒で食べ終わりました。めちゃくちゃうまかったです。

 

 

石が好きな人への追記:

重しとして使った後の石は、濡れてないのにほかほかです。

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何の変哲も無い石に見えますが、実はほかほかしています。

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裏面です。ほかほかです。

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足に載せました。あったか〜い。

 

冬場にやると、食べものと天然カイロが同時にできて便利かもしれません。

でもどの季節だって、美味しいものを食べている時、側に温かいものがあるのはうれしいことですよね〜、それが生き物でも生き物でなくても。

 

ケトルでゆで卵をつくる

2021/6/17

 

お昼に「コントが始まる」9話を観たら、菅田将暉になりたくなったので、家にある自分がいちばん菅田将暉っぽいんじゃないかという服に着替えて一日を過ごした。

 

(ゆで卵が食べたい…!)

ケトルを使ってパウチを湯煎し始めた時からそう考えていた。卵は栄養価が高く、完全食品とも言われる存在だ。そんな完全食品を気軽に食べられる方法のひとつがゆで卵である。とりあえず熱湯で数分茹でれば栄養が摂取できる。だから、私はゆで卵に全幅の信頼を置いてきた。会社にも、昼食に間食にと家で用意したゆで卵を頻繁に持参していたため、私物ロッカーに塩の小瓶を常備していたほどだ。ケトルでゆで卵が作れるようになれば、私のずぼら食生活ライフもより豊かになること間違いなしなので、ゆで卵作りにトライしてみることにした。

ケトルでゆで卵をつくるために、クリアしなければならないことがひとつあった。それは、「ケトル内における卵の位置の固定」だ。ケトルの中に直接卵を入れて茹でた場合、沸騰時発生する気泡によって卵が浮き沈みし、ケトルの底面や側面にぶつかって、割れてしまう恐れがある。そうならないように、ケトルの中で気泡が発生しても、卵が動かないようにする必要があった。

ケトルの中で卵が動かないようにするためには、どんな器具が必要だろうか。卵を気泡から守ることで、卵の動揺を抑え、位置の固定を可能にするもの…。

とりあえず、手持ちの調理器具で使えそうなものとして、おたまが思い浮かんだが、おたまでは心もとない。ケトルの中で発生する気泡は大きく、かなり勢いがあるので、おたま程度のポケットの深さでは安心できない。そこで、やむなく100均に行って、適当な道具を探すことにした。

ダイソーに足を踏み入れ、さっそく調理器具の棚に向かった。まず目に入ってきたのは味噌こしだ。みそこし!なるほど、その引き出しはなかった。味噌こしであれば、ポケットの深さも十分であるし、ステンレス製だから、熱湯に入れても問題はあるまい。私の心は味噌こしにぐっ、と傾いた。しかし、不安な点がひとつあった。

(この味噌こしはケトルに入るだろうか…。)

ケトルの蓋を開け、上から眺めたところを思い出しながら、私は目の前の味噌こしを見た。そして、その想像上のケトルが描く丸に、目の前の味噌こしを沈めてみた。味噌こしは、ポケットの中盤で引っかかり、ケトルの丸を丸丸ふさいでしまった。だめだ、入らない…。味噌こしは適当な道具ではなかった。

次に私が目を留めたのがこれだ。一目見た瞬間に、私の脳裏で予感が鳴った。これが「正解」かもしれない…。


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商品の形を見ても、本来何を目的とする道具であるか皆目見当がつかなかったが、パッケージには「泡立て器(開閉式)」とあった。開けばトング、上部のスイッチをスライドし、ロックして閉じれば泡立て器として使えるということのようだった。けれど、その時の私にとって、それは全く「ケトルでゆで卵をつくるための道具」であった。とにもかくにも、その器具の形状は私の目的達成にうってつけのように思えた。

形状は完璧だ、完璧なのだ。が、やはり心配なことが二つあった。

一つ目は、耐熱温度だ。見たところ、その道具はポリでできていた。素材が熱湯に耐えうるかどうかはかなり重要なポイントである。この点に対しては他に工夫のしようもないので、どれだけ形状が完璧でも、耐熱温度が低ければ適当な道具として我が家に迎え入れることはできない。パッケージ裏の「耐熱温度」を真剣な面持ちで確認すると、上限は120度。予想外に高い。とりあえず、この問題はクリアだ。

二つ目は、この格子状の球に卵が収まるかということ。先ほどと同じようにイメージしてみると、脳内の卵はこの球にすっぽりと収まった。そして、そうなる可能性はかなり高いように思えた。しかし、想像と現実が一致しないのはよくあることだ。いざ茹でる段になって、卵が球に収まらず失敗に終わったとしても、驚くには値しない。高い可能性を絶対にするために、一度帰宅し卵を携えて再訪し検証することも可能だが、あまりにも不審なので、それはさすがに控えることにした。もし収まらなかった場合は、本来の用途であるトングや泡立て器として使用すればよいと考え、ほんの少し不安だったが購入することにした。

 

ということで、実際にケトルでゆで卵をつくってみました。

①球に卵を入れて、ロックして閉じる。これで縦にしても卵が落ちない。


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やってみたらイメージ通り、卵はすっぽりと球に収まってくれた。これは俗に言うシンデレラフィット。

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②お湯が沸いたらケトルに入れて、好みの固さになるまで待つ(私の好みは8分くらいなのでそれくらい待った)

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③できたら引き上げて冷やす


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④殻をむいたら完成!うまい!


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使ったあとの「泡立て器(開閉式)」。特に溶けたりしていない。

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ということで、無事に成功しました。これでケトルでゆで卵がつくれます。もちろんですが、ダイソーはこんな使い方想定していません。

 

ちなみにこの日の昼ご飯はこれでした。刺身はわらさっていうブリみたいなやつ。簡単でうまかったです。

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〈夢〉2021/6/19-6/20の明け方

昨日は9時頃にはもう眠くなっていたけど、なんだかんだしてたら0時になった。0時に首尾よく眠りにつけたけど、変な夢をみて4時過ぎには目が覚めてしまった。
けっこう変な夢だったし、すぐに眠れなさそうだったので、そのまま何となく詳しい内容をメモに残した。以下、そのメモです。

 

〈夢〉
女の子同士の大人数合コン?

時間は夜、たぶん19時くらい。会場はかなり大きく、屋根無しの野球場みたいな感じで、観客席がすり鉢状になってる。女性は2グループに分けられていて、それぞれ、観客席の低い場所(前部)と高い場所(後部)に振り分けられている。私は後部にいるが、雨が降った後のようで、足元がかなり悪い(なぜか私たちの足元はコンクリではなく、土である)。土がぐちゃぐちゃになっていて、歩くと靴やズボンの裾が汚れてしまいそうになる。一方、前部の方は水捌けがよいのか、土が完全に乾いていて歩きやすそうに見える。
他にも問題があって、前後のグループの距離が離れすぎていて、全く話せない。私の視界では、観客席の前部にいる女性たちの、無数の頭頭が黒い点になって蠢いている。最初は大人しくしていた私たち後部のグループの中にも、これはいけないという雰囲気が充満し、勇気ある誰かが、ひとりぽつんとグラウンドに立っている中年女性に「先生!」と大声で呼び掛けた(かなり距離があるので、声を張り上げないと聞こえない)。「先生」はどうやら会の進行役であるようで、声が届いたのか直後に「席替え〜!」と叫んだ。そのかけ声をきっかけに前後で場所を入れ替えることになったのだが、前部は地面が乾いてて、「地面乾いてるの最高〜!」と、元後部の私たちは快哉を叫んでいた(前後交代しただけなので、やっぱりお互いに会話はできないままだ)。
地面が乾いていることに心底よろこんでいたら目が覚めたので、結局会の目的は果たされなかった。
ちなみに、後部にはなぜかスマホキャリアの契約窓口があって、私は「(女の子と話ずにキャリア)契約しちゃうかも」って一緒に参加した友人にこぼしてた。

 

その後、6時ごろにやっと眠れた。9時前に目が覚めてカフェオレを飲んだ。