顕現

この間、「おまじないだった言葉が現実になった」ということがあって、うれしかったので書きます。

 

9月のある日、友人Cから以下のようなLINEをもらった。

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(手のひらに乗ったアメジストの写真)

「ついに石デビューしたで よくあるアメジストやけど!」

「生きてるだけで尊いよ、まじで。最近家にいること長くてさ、昔、午睡に教えてもらった恩田陸の本のシリーズの新作読んだりとか、映画とか、モネの絵の良さ感じられることもあって、午睡って昔からセンス半端なかったんやなって思ったし、いろいろ教えてもらえて感謝しかない!」

「だから石も始めてみた(LINEの太ってる人の絵文字)」

「まずは鉱物からにするわ〜笑」

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友人Cは中学時代からの親友だ。彼女から6月末に連絡をもらっていたものの、その頃は、私が最も余裕のない時期だったのでまともな連絡ができず、「また連絡します!」と彼女に言ってから、ぐずぐずしている間に2ヶ月強が経ってしまっていた。

そんな中、Cから先日「おい、もう9月やでおい(LINEのおじいさんの絵文字)」「調子いかが?」とメッセージが届いた。

彼女のこの挨拶は(連絡した方がいいんやろうけど、まだ万全ではないし…でも、だいぶ時間経ってるしなあ…)と、ためらいと、申し訳なさと、後ろめたさとで湿って重くなっていた私の気持ちを一掃してくれた。連絡できなかったことを詫びる私の返信に続けて、冒頭に引用したメッセージが送られてきた。

そのメッセージを読んだとき、何とも言えない不思議な気持ちを感じた。しかし同時に、それをかき消すほどの大音量で、「びっくりするほどいいこと言ってくれるやん!!!!朝からめっちゃうれしいわ!!!!」という声が脳内に響き渡っていた。なので、そのときはその気持ちをそのまま文字にして返したのだけれど、もらった言葉がとってもうれしかったので、彼女にハガキを書くことにした。そしてせっかくだから、彼女のメッセージを読んだときに感じた「不思議な気持ち」の理由に、少し目を凝らしてみることにした。

 

彼女のメッセージを読んだとき、不思議な気持ちになった。それは、私が彼女にそれらを「教えた」記憶が全くなかったからだ。確かに私は中学生の頃、恩田陸が大好きで「麦の海に沈む果実」とか「黒と茶の幻想」とか、著者の本を夢中になって読み漁っていたし、オランジュリー美術館でモネの睡蓮を観たことは、貴重な経験として私の中に深く残っているけれど、それらを彼女に教えた記憶は全くないのだ。特に、恩田陸に関しては、昔自分が夢中だったことすら忘れていて、Cから言われて(そういえば好きだったなあ〜、懐かしい)と思い出したほどなのだ。

そんな、私自身すら忘れてしまっている過去の自分が、今のCの生活に影響を与えているというのは何だか不思議な気持ちがした。確かにそれは私だけれど、10年以上の「時間」を隔てた私で、今の私はその頃の私がどんな形だったのか思い出せないほどに、その頃とは違う形になっている。でも、その頃の私を形作っていたもの、つまり、好きだったものの一部を覚えていてくれる人がいる。それは「過去(の私)」という、記憶の闇に飲まれ、消え去ったように見えたものが、それでも確かに"在った"という証明だ。確かに、私は存在したのだ。私自身が忘れているにも関わらず。時間で編まれた手綱を現在から順に手繰り寄せていけば、その先には確かに、恩田陸を愛読し、モネの「睡蓮」に感動した私がいるのだ。

そして、その過去の私を構成していたもの、その一部がCによって切り取られ記憶されて、今の彼女の生活を彩るピースになっているということ、その事実が彼女から今の私にもたらされ、私を感動させたということ、その一連が「生きているだけで尊い」という、この言葉を証明しているような気がする。

 

「生きているだけで尊い

丸ままこの通りではないけれど、私はこの言葉に類する言葉を言ったことも、言われたことも、目にしたこともあって、それを私が他者に伝えるとき、例えば友人に言うときには、心の底から「私は、あなたがいてくれるだけでうれしいよ」という気持ちを込めて伝える。けれど、自分で自分にこの言葉を言うときはいつも、おまじないに近いような気持ちで唱えている…ような気がする。緊張したときに手のひらに「人」と書いて飲んだり、観客を全員じゃがいもだと思い込んでみたり…。私にとって「生きているだけで尊い / えらい」という言葉は、そういう、しんどい状況にいる自分の気持ちを、少しでも和らげるために唱えるおまじないのようなものだった気がする。

でも、この不思議な気持ちを辿っていった先にあった事実ーーー自分では忘れてしまっていた過去の自分、その欠片が今、誰かの生活を彩っているということーーーに思い至ったとき、「生きているだけで尊い」という言葉が、急に真実味を帯びて、目の前に立ち上がってきた。それは、とても確かなことなのだ。それはとても確かなことだから、直に触れもするし、もし望めばぎゅっとこちらに抱き寄せることもできる。今は、それくらいはっきりとした姿で、私の側に立っている。「生きているだけで尊い」はただのおまじないではない、事実を伝える言葉なのだと、大胆にも言い切ることができる。

それができるのは、友人Cが、私の忘れてしまっていた私が好きだったものを覚えていてくれたからだ。私たちはもう、こんなにも長い間友人なのですね。

 

石デビューを果たしたという友人Cに、鉱物だけでなく石ころも好きになってもらうために、石シール(石は恋人所蔵の石)を作って、ハガキに貼って送った。石はいろんな形や色があってきれいだよ〜。


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セピア→バラ事件

セピア→バラ事件、あるいはおいしいごはん2

 

2021/7/13

さっきから数時間寝付けず、頭の中で文章がぐるぐるしていたのでいっそ吐き出してしまおうと思ってこれを書き出します。

 

まともな調理ができない日々が続いている。おそらく1ヶ月くらい、あるいはそれ以上、自宅では包丁を握っていない。まな板の上で包丁を使って何かを切るところを想像しても全くやる気にならない。面倒臭い。包丁を使って食材を切るということは、刃物で何かの肉や身を断つということであって、ただ細かくするというだけでなく、時には原型が分からなくなるくらいまでこの私の手で切り刻むこともあって、そう表現すると何かグロテスクで危険な行為であるかのように思えるのに、実際にはそれは全くの合法で、むしろ健康的な明るささえあって、そういう風に刃物が使えるシーンって料理だけなんじゃないかと思うので、包丁で何かを切るという体験は私にとってけっこうおもしろいものだったのだけれど、今はそんな風におもしろがる気持ちもなく、ただただ面倒臭い。なので、自宅で食事をするときは「手間がかからずそこそこ口に合って栄養価が高いもの」ばかりを食べている。この条件を満たすものがそもそも少ないというのと、数あるものからひとつを選ぶという行為が疲労の素になるという理由から、だいたい同じものを食べている。

同じものというのは、①玄米混ぜご飯②オートミール+ヨーグルト③お粥④トマトと卵の炒め物⑤ゆで卵⑥鶏むね肉⑦刺身のっけ雑炊で、この中で唯一「調理」という行為が発生するのはトマトと卵の炒め物なのだが、それもこれ以上ないくらい手を抜いて作っている。食べるのに使う皿の上で、食べるのに使うスプーンで卵を溶いて、トマトを手でちぎってフライパンに投げ入れて炒めるのだ。そうすれば、調理によって発生する洗い物はフライパンだけになる。こんなに雑に作っても、トマトと卵の炒め物はうまい。しかも、すぐにできる。炒めるという行為の面倒臭さよりもうまさと栄養に軍配が上がるので、これだけはキッチンに立って作れる。卵とトマトに感謝。日々作ったトマたま炒めです。


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そんな私においしいご飯を食べさせてくれる人がいる。恋人である。恋人は「何か食べたいものがあったら言ってくださいね、何でも作りますから」と言う。そして本当に何でも作ってくれる。だから、セピア色(玄米とオートミールが主食なので)で単調な食生活が、恋人宅に行くとバラ色でバリエーションに富んだものになる。セピア色の食生活からバラ色の食生活へ、一息にジャンプ。ものすごい高低差である。ジャンプするのに必要なのは、私たちの最寄り駅を結ぶ電車だから、現実世界の水平移動がイメージ上の垂直移動を産んでいるというのは少しおもしろい。

この間、セピア色の食生活をしばらく続けた後に、恋人宅でカレーを食べた。ナスチキンカレーとオクラきゅうりカレー大葉のせのあいがけ。

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一口食べた瞬間に(ご飯だ!!!!!!!!)と思った。目がかっと開いて、思わず「うまい!ご飯食べてるって感じ!!」と言ってしまった。ご飯食べてるんだからご飯食べてる感じも何もないし、お前が自宅で食べてるのだってご飯だろうという話なのだが、私が自宅で食べているものと、恋人が作ってくれたカレーの間には明確な違いがあった。恋人が作ってくれたカレーはなんか、何だろう、いろんな味がしたのだ。いろんな味や食感が口の中で飛び跳ねて、存在を主張していた。甘いも塩辛いも一定の幅でしか感じてこなかった舌の上に、いきなりスパイスカレーを載せたもんだから、寝てた味蕾を叩き起こしてしまったのかもしれない。起きてー!味蕾起きてー!!

私のは手間がかからずそこそこうまい「栄養摂取」で、恋人のは「おいしいごはん」なのだなあ…とつくづく思った。両者の間には決して越えられない壁がある。それほど高いようには見えないけど、実際はしっかり高くて絶対に越えられない壁。

恋人の「何でも作りますよ」は言葉通りの意味で、塩角煮も、天ぷらも、カツオの竜田揚げも、じゃがいもとたらこのパスタも、餃子も、ウィークエンドシトロンも、本当に何でも作ってくれる。


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どれも全部おいしいので、もりもり食べてしまい、恋人宅にいると自宅で減った体重が元に戻る。比喩でなく、そのままの意味で私は恋人に生かされている。いくら感謝してもしきれない。

 

 

追記:

これを書いていて、味や食感のバリエーションは「おいしいごはん」を構成する大事な要素のひとつだと実感した。この間読んだオモコロの記事(いつも家で作っているパスタを作る会 | オモコロ)で紹介されていたプロの料理人お二方ともが「人間は食感が変わらないと飽きる」と言っていて、(言われてみればそうか…?)ぐらいの気持ちで読んでいたけれど、今回のセピア→バラ事件で痛感した。変化に富む味や食感は「おいしいごはん」を作る大事な要素だ。

私の「栄養摂取」は味や食感が平坦である。起伏がない。食材が限定されているし、味付けは塩か化学調味料だ。その単純さは、2色だけではみ出さずきれいに塗ったぬり絵みたいだ。それに、どうにもならないときに食べるお粥パウチはもちろんいつも同じ味がする。味を平均化するのがそういった食品の使命であって、それはそれで安心できるのだが、それが続くと味蕾が眠る。

食感の変化は、食材や調理法のバリエーションに依拠する。また、人が作ると味や食感に「ブレ」や「ムラ」が生じる。それらが「おいしいごはん」を形作る重要な要素のひとつである、と身をもって理解したのだった。

 

ケトルで鶏むね肉に火を通す with 石

ちょっとみんな聞いてー!!!!!!(カンカンカンカン)という気持ちでこの記事を書き出している。内容はタイトルの通りだ。私は数十分前にケトルで鶏むね肉に火を通すことに成功した。この感動を他の誰かに伝えたい、この話を誰かに聞いて欲しいという気持ちが高まりまくって、食べ終わってすぐそのままの勢いでこれを書いている。

さっそく具体的な方法を記述したい気持ちは山々なのだが、今回の成功は過去におかした一つの失敗の上に成り立っている。よって、その失敗について先に軽く触れておくことにする(読み飛ばしても全く問題ないです)。

 

2021/6/19

私はケトルでゆで卵(前記事参照)の成功体験をもとに、ケトル調理を他の食べ物にも適用しようとしていた。真っ先に候補に上がったのが、鶏むね肉である。鶏むね肉はゆで卵同様、以前から私の食生活を支えてくれていたよきパートナーであった。その鶏むね肉をケトルで調理できるようになれば、私のケトル食の可能性はさらに広がるだろう。しかし、スーパーに行き、鶏むね肉のパックを見たとき、私はふと不安になった。

(こんなに大きな肉の塊にケトルで火を通せるだろうか…?)

決して、目の前の鶏むね肉が通常より大きかったという訳ではない。ただ、私はこれから、ケトルで火を通すというイレギュラーな行為をするのだ。

(300gの鶏むね肉でも、ケトルには荷が重いんじゃないだろうか?きちんと火が通るのか…?)

もし完全に鶏むね肉に火が通らず半生になった場合、結局鍋で茹でることになる。それはめんどくさいからなるべく避けたい。そう考えた私は、結局4本入りのささみに手を伸ばした。

 

数日前に購入しておいたアイラップ(耐熱約120度のポリ袋。ケトルで食品を茹でるために、耐熱のポリ袋があると超便利なのではと思って調べたら出会った最高の商品)に、ささみを投入。下味をつけて放置し、袋ごと沸いた湯の中に入れて約10分待った。

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火は通っていたが、ジューシーさは全くなく、食感がゴムみたいになってしまった。味付けにも失敗してしまったようで、かなり塩辛い。辛かったけれど、お茶をがぶ飲みしながら全部食べた。

 

2021/6/23

そして本日である。私は電車に揺られながら、前回失敗したのは「急速に熱を入れ過ぎたからだ」と判断した。「鶏むね肉やささみをしっとり仕上げるには、じっくりと火を通すことが重要である」。私がSNSやWebで見てきたレシピには全て、そう書いてあった。私はたぶん、半生になることを恐れ過ぎていたのだろう。ケトルで沸かしたお湯の温度や勢いは、細いささみには過剰だったのだ。より大きな塊である鶏むね肉なら、同じ条件であってもゆっくり火が入るはずだ。そう考えて、当初はあえて避けた鶏むね肉を購入して帰宅した。調理の際、以下のレシピを参考にしました。ありがとうございます。

 

①鶏むね肉は300gのものにした。フォークで穴を開けて、裏表に軽く塩を振る。


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②できるだけ空気を抜いてアイラップに入れる。

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③お湯(何となく約700mlにした)が沸いたらケトルに袋ごと鶏むね肉を入れる。

のだが、ここで小さなハプニングが起こった。袋に入れた鶏むね肉が水面に浮いてきてしまい、肉全体がお湯にきちんと浸らないのだ。

困った…何か重しが必要だ。重しになるようなものはないか…と部屋を見回したところ、たくさんあった。

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そう、私は石が好きなのだ。部屋には石がたくさんある。静かに佇むそれらの中で、いちばん重しに向いていそうなものを選んだ。これだ!

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この石は普段、棚の上でブックストッパー?ページオープナー?として活躍している。いちばん後ろの丸いやつです。ついでに私の拾ったいい石たちも見てください。

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④石(もしくは任意の重し)をアイラップに包んで、ケトルに入れる。

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自分で作り出した状況にも関わらず、アイラップに包まれた石とか初めて見たからテンション上がった。石ってこんな姿にもなるんだ…。石は硬くて丈夫だから、用途によって柔軟に装いを変えられるのだ。石ってやっぱりすごい。好き。

 

⑤お箸とかで、鶏むね肉とのバランスを整えて、鶏むね肉全体がお湯に浸るようにする。口でゆっくり30秒数えて、スイッチをオフにした。ここから約30分間ふたをして放置(石を入れる時に多少もたついたので、30分より数分長く待った)。

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約30分後の姿。

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できてそう!!しかし、油断は禁物。キッチンばさみで分厚い部分を切断して中を確認する。

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できてそう!!!!しかもジューシーそう!!!!これでかぶりついてもよかったが、完全に火が通ってるかちょっぴり不安だったので、袋ごとケトルに戻して数分追加で加熱。のち、完成!

 

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ポン酢と梅肉をつけて食べました。インターネットで知識を共有してくれる方、私にケトルをくれた田中さん、そして石に感謝の念を抱きつつ、秒で食べ終わりました。めちゃくちゃうまかったです。

 

 

石が好きな人への追記:

重しとして使った後の石は、濡れてないのにほかほかです。

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何の変哲も無い石に見えますが、実はほかほかしています。

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裏面です。ほかほかです。

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足に載せました。あったか〜い。

 

冬場にやると、食べものと天然カイロが同時にできて便利かもしれません。

でもどの季節だって、美味しいものを食べている時、側に温かいものがあるのはうれしいことですよね〜、それが生き物でも生き物でなくても。

 

ケトルでゆで卵をつくる

2021/6/17

 

お昼に「コントが始まる」9話を観たら、菅田将暉になりたくなったので、家にある自分がいちばん菅田将暉っぽいんじゃないかという服に着替えて一日を過ごした。

 

(ゆで卵が食べたい…!)

ケトルを使ってパウチを湯煎し始めた時からそう考えていた。卵は栄養価が高く、完全食品とも言われる存在だ。そんな完全食品を気軽に食べられる方法のひとつがゆで卵である。とりあえず熱湯で数分茹でれば栄養が摂取できる。だから、私はゆで卵に全幅の信頼を置いてきた。会社にも、昼食に間食にと家で用意したゆで卵を頻繁に持参していたため、私物ロッカーに塩の小瓶を常備していたほどだ。ケトルでゆで卵が作れるようになれば、私のずぼら食生活ライフもより豊かになること間違いなしなので、ゆで卵作りにトライしてみることにした。

ケトルでゆで卵をつくるために、クリアしなければならないことがひとつあった。それは、「ケトル内における卵の位置の固定」だ。ケトルの中に直接卵を入れて茹でた場合、沸騰時発生する気泡によって卵が浮き沈みし、ケトルの底面や側面にぶつかって、割れてしまう恐れがある。そうならないように、ケトルの中で気泡が発生しても、卵が動かないようにする必要があった。

ケトルの中で卵が動かないようにするためには、どんな器具が必要だろうか。卵を気泡から守ることで、卵の動揺を抑え、位置の固定を可能にするもの…。

とりあえず、手持ちの調理器具で使えそうなものとして、おたまが思い浮かんだが、おたまでは心もとない。ケトルの中で発生する気泡は大きく、かなり勢いがあるので、おたま程度のポケットの深さでは安心できない。そこで、やむなく100均に行って、適当な道具を探すことにした。

ダイソーに足を踏み入れ、さっそく調理器具の棚に向かった。まず目に入ってきたのは味噌こしだ。みそこし!なるほど、その引き出しはなかった。味噌こしであれば、ポケットの深さも十分であるし、ステンレス製だから、熱湯に入れても問題はあるまい。私の心は味噌こしにぐっ、と傾いた。しかし、不安な点がひとつあった。

(この味噌こしはケトルに入るだろうか…。)

ケトルの蓋を開け、上から眺めたところを思い出しながら、私は目の前の味噌こしを見た。そして、その想像上のケトルが描く丸に、目の前の味噌こしを沈めてみた。味噌こしは、ポケットの中盤で引っかかり、ケトルの丸を丸丸ふさいでしまった。だめだ、入らない…。味噌こしは適当な道具ではなかった。

次に私が目を留めたのがこれだ。一目見た瞬間に、私の脳裏で予感が鳴った。これが「正解」かもしれない…。


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商品の形を見ても、本来何を目的とする道具であるか皆目見当がつかなかったが、パッケージには「泡立て器(開閉式)」とあった。開けばトング、上部のスイッチをスライドし、ロックして閉じれば泡立て器として使えるということのようだった。けれど、その時の私にとって、それは全く「ケトルでゆで卵をつくるための道具」であった。とにもかくにも、その器具の形状は私の目的達成にうってつけのように思えた。

形状は完璧だ、完璧なのだ。が、やはり心配なことが二つあった。

一つ目は、耐熱温度だ。見たところ、その道具はポリでできていた。素材が熱湯に耐えうるかどうかはかなり重要なポイントである。この点に対しては他に工夫のしようもないので、どれだけ形状が完璧でも、耐熱温度が低ければ適当な道具として我が家に迎え入れることはできない。パッケージ裏の「耐熱温度」を真剣な面持ちで確認すると、上限は120度。予想外に高い。とりあえず、この問題はクリアだ。

二つ目は、この格子状の球に卵が収まるかということ。先ほどと同じようにイメージしてみると、脳内の卵はこの球にすっぽりと収まった。そして、そうなる可能性はかなり高いように思えた。しかし、想像と現実が一致しないのはよくあることだ。いざ茹でる段になって、卵が球に収まらず失敗に終わったとしても、驚くには値しない。高い可能性を絶対にするために、一度帰宅し卵を携えて再訪し検証することも可能だが、あまりにも不審なので、それはさすがに控えることにした。もし収まらなかった場合は、本来の用途であるトングや泡立て器として使用すればよいと考え、ほんの少し不安だったが購入することにした。

 

ということで、実際にケトルでゆで卵をつくってみました。

①球に卵を入れて、ロックして閉じる。これで縦にしても卵が落ちない。


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やってみたらイメージ通り、卵はすっぽりと球に収まってくれた。これは俗に言うシンデレラフィット。

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②お湯が沸いたらケトルに入れて、好みの固さになるまで待つ(私の好みは8分くらいなのでそれくらい待った)

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③できたら引き上げて冷やす


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④殻をむいたら完成!うまい!


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使ったあとの「泡立て器(開閉式)」。特に溶けたりしていない。

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ということで、無事に成功しました。これでケトルでゆで卵がつくれます。もちろんですが、ダイソーはこんな使い方想定していません。

 

ちなみにこの日の昼ご飯はこれでした。刺身はわらさっていうブリみたいなやつ。簡単でうまかったです。

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〈夢〉2021/6/19-6/20の明け方

昨日は9時頃にはもう眠くなっていたけど、なんだかんだしてたら0時になった。0時に首尾よく眠りにつけたけど、変な夢をみて4時過ぎには目が覚めてしまった。
けっこう変な夢だったし、すぐに眠れなさそうだったので、そのまま何となく詳しい内容をメモに残した。以下、そのメモです。

 

〈夢〉
女の子同士の大人数合コン?

時間は夜、たぶん19時くらい。会場はかなり大きく、屋根無しの野球場みたいな感じで、観客席がすり鉢状になってる。女性は2グループに分けられていて、それぞれ、観客席の低い場所(前部)と高い場所(後部)に振り分けられている。私は後部にいるが、雨が降った後のようで、足元がかなり悪い(なぜか私たちの足元はコンクリではなく、土である)。土がぐちゃぐちゃになっていて、歩くと靴やズボンの裾が汚れてしまいそうになる。一方、前部の方は水捌けがよいのか、土が完全に乾いていて歩きやすそうに見える。
他にも問題があって、前後のグループの距離が離れすぎていて、全く話せない。私の視界では、観客席の前部にいる女性たちの、無数の頭頭が黒い点になって蠢いている。最初は大人しくしていた私たち後部のグループの中にも、これはいけないという雰囲気が充満し、勇気ある誰かが、ひとりぽつんとグラウンドに立っている中年女性に「先生!」と大声で呼び掛けた(かなり距離があるので、声を張り上げないと聞こえない)。「先生」はどうやら会の進行役であるようで、声が届いたのか直後に「席替え〜!」と叫んだ。そのかけ声をきっかけに前後で場所を入れ替えることになったのだが、前部は地面が乾いてて、「地面乾いてるの最高〜!」と、元後部の私たちは快哉を叫んでいた(前後交代しただけなので、やっぱりお互いに会話はできないままだ)。
地面が乾いていることに心底よろこんでいたら目が覚めたので、結局会の目的は果たされなかった。
ちなみに、後部にはなぜかスマホキャリアの契約窓口があって、私は「(女の子と話ずにキャリア)契約しちゃうかも」って一緒に参加した友人にこぼしてた。

 

その後、6時ごろにやっと眠れた。9時前に目が覚めてカフェオレを飲んだ。

2021/6/18

昨日の夜、疲れて8時に寝たら嫌な夢を見て0時に起きた。すぐには眠れそうになかったので、本を読んだ。アンナ・カヴァンの「氷」。全て読み終わったのが2時頃で、いつも通り雨音を流して寝ようとしたけれど眠れず、BGMをすぎるとshu3のマイクラ作業配信に変えたら、4時前にやっと眠りにつけた。リラックスして話してる人たちの声を聴いてると、こっちもリラックスできる。すぎるはやさしい人だなあ…とよく思う。9時前には起床することができて、窓の外は快晴で歩くと気持ちがよさそうだったので、予約していた本を取りに図書館まで歩くことにした。

 

街を歩くと、いつも(街っておもしろいな〜)と思う。街はただ存在しているだけなのに、その中を通り抜ける私はいつも様々なものを発見して楽しんでいる。同じ場所でも違う時刻に行くと全く異なる様子だったりするし(私が散歩するのは基本的に夜なので、太陽の白い光の下で様々な人が行き交う様、街が正に稼働している様を見るのは新鮮だった。私は街の寝顔ばかりを眺めている)、本当に散歩っておもしろいと思う。考えごとも捗るし。最近、恋人と付き合って1年になったのだけれど、それを祝う砂絵ならぬ「石絵」とかやってみたらおもしろそうだなと思っていて、どうやったらそのアイデアが実現するか考えていた。これどうかな?という案が出てきたので、後で恋人に申告してみようと思う。

 

図書館⇄家で見た(いいね〜)と思ったものを貼ります。こういうの上げるのってInstagramが適切なんだろうけどね。

①光と影(私は規則的に配置されているものの作る影がすき)

すだれ?が何本もの直線を作ってるのがかっこいい

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地面の柔らかな裂け目みたいに見える、公園の、網でできたゲートの下

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駐車場の地面
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②かわいいね〜

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③犬とねこの糞尿ちゃんと始末してね

「大迷惑!」の上で傍若無人に飛び跳ねるわんちゃんかわいいね。犬やねこのイラストが載ってるこういう看板集めやってみたら楽しいかも、とか考えていた。

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④石

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街は楽しい場所です。

 

 

生きるためのずぼら

 

 2021/6/15

 

ここ最近、エンターテインメントをほとんど何も摂取できない。オモコロもドラマもSNSも好きな芸人のYouTubeチャンネルもラジオも、あの「ナポリの男たち」の配信さえも見続けることができなくて、途中でやめてしまう。音楽も同じだ。宇多田ヒカルスピッツも聴けない。数年前、人が本当に嫌になった時期があって、その時もクラシックは聴けたから、今回もクラシックを聴こうとしたけれど、それも無理だった。SNSは疲れているのについつい見てしまうから、今は頑張って見ないようにしている。

それらエンタメになぜ長時間触れられないかというと、それらには、視聴者/リスナーの感情を動かそうとする、製作者の意志やエネルギーが含まれているからだ、と思う。当たり前だ。それが一切ない制作物なんて存在しない。エンタメの受け取り手だってみんな、自分を楽しませる何かや、自分の心を動かしてくれる何かを求めているのだし。現に少し前の私はそうだった。気になったドラマやアニメを一気見したり、オモコロで大笑いしたり、ナポリやすぎるの配信を垂れ流して生活していた。でも、今の私はあまりにも疲れすぎていて、製作者の「楽しませるぞ!」「伝えるぞ!」というエネルギーに触れられないのだ。そんなこんなで、YouTubeで雨の降る音ばかりを聴いている。自然の音には意志とか感情がないから疲れない。リラックスできる。ここ数日は家にいる時も、移動中も、就寝時も、ほとんどの時間を雨音を聴きながら過ごしている。その合間に疲れなさそうなもの、もしくは、好きだから観ておきたいもの(例えば、大豆田とわ子と3人の元夫とかナポリの男たちのマイクラ配信とか)をちょこちょこと観ている。

 

そんな状態なので、恋人といる時はともかく、ひとりになると食べる気力が失せる。でも食べないと食べないことによって余計に食べられなくなりそうだから頑張って食べている。今、私にとって、ひとりで食べるご飯は楽しみではなく、淡々とこなせる習慣でもなく、果たすべき義務になりつつある。

「頑張って食べる」ということを自分がする日がくるとは思わなかった。すごく疲れた日の終わりにスーパーに行って、何を食べたらよいか分からず「あれも違う」「これも違う」と、スーパーをただただ徘徊する「スーパーゾンビ」になることはこれまでにも多々あったけれど、そんな時でも「食べる気持ち」は失っていなかったし、食べることを義務だと感じたこともなかった(その時食欲がなくても、後で必ず何か食べたくなるから、食べたい時に食べたいものを食べりゃいいじゃん、と思えた)。料理も製菓も基本的には好きな方だし、今の物件に決めたのもガスコンロと広いキッチンがあるからだ。自炊はいつも私の身近にあった。

しかし今は、何かを作る気にならない。キッチンでガスコンロに火をつけて何かを茹でたり炒めたりするのがめんどくさい。食べなければ…という思いはあるものの、何も食べたいものがない。作る手間がほとんどなく、かつ、私が食べたいと思えるものなんて世界にはほとんどないのだ。近所には大手外食チェーンがいっぱいだし、お弁当屋さんも近くにあるけど、固形物で、しかも味の濃いものを口に入れる気にはならない。

そうなると、導き出される食品はたった一つだ。そう、お粥である。レトルトパウチのお粥なら食べられるし、食べたいとも思える。調理も簡単だ。

スーパーに行ってお粥を探し、棚の間をさまよい歩いた。私は普段、風邪も病気もほとんどしない健康体なので、お粥がどこにあるかなんて把握していなかった。とりあえず頭上の案内プレートで「レトルト」の文字を探してそこに向かった。果たしてそこにお粥はあった。でも、そこにあるお粥は私の求めているものとは少し違った。私が欲しいのは「フリーズドライ!かに雑炊」とか「ご飯があれば1分でできる!ちょっとぞうすい」とか「干貝入り粥」とかではない。もっと普通の、梅とか卵とかしゃけとかが入っていて、ご飯さえ用意する必要がない、完成済みのシンプルなお粥なのだ。そんな最も基本的なお粥がないわけがないと思って、他の棚も当たってみようと後ろを振り返ったら、「介護食」のコーナーがあった。そこには、飲み物にとろみをつけるための粉とか、レトルトパウチの「やわらかご飯」とか「おじや 親子丼風」とかが置いてあった。それを見て思い出されることがあった。私は昔、高齢者施設で働いていた。そこには、ご飯を食べない人というのはまあまあいて、でも「ご飯を食べられなくなったら終わり」だから、そういう人たちにも何とかご飯を食べてもらっていた。お風呂に入りたくない気持ちは当時も理解していたが、「ご飯を食べたくない気持ち」は今いちピンと来ていなかった。でも、なるほど、彼らはこういう気持ちだったのか、とその時理解した。スーパーに並ぶ色とりどりのパッケージを見てもどれにも惹かれない。空腹なのに食べる気にならない。食べるのには想像以上に気力がいる。生きる意志がなければ、食べる意志も生まれない。「食べられなくなったら終わり」なのは本当なのだ。食べることと命を続けていくことが一本の太い線で繋がっていることを、こんなにはっきりと認識したことはなかった。

結局、お米の棚に私の求めるお粥があったので、数パック買って帰った。

以下、努めてずぼらして食べたレポ?です。何もかもがめんどくさい時にはこういう方法もどうでしょう。ガスコンロでお湯沸かさなくていいし、皿洗いもしなくていいです。

 

おかゆをケトルに突っ込んでそのままお湯を沸かします。(このケトルはいらないからって元ご近所さんの田中さんがくれました。田中さんありがとう。おかげで飯食えてます。)

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②沸いてしばらくして、あったまったかな〜と思ったらタッパーに袋ごと移します。

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③袋をタッパーの高さに合わせてハサミで切ります。
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④袋のまま食べます。

 

頑張ってずぼらして食べたお粥は、温かくてやさしくておいしかった。お粥を食べたら少し元気が出て、冷凍してたラタトゥイユをレンチンで解凍できたから、ラタトゥイユも食べた。

生きるために工夫している私えらいな。生きるためのずぼらはどんどんしていこうね。